多くのものを犠牲にしても選びたい道だった。今にして思えば地元を出たこともない子供がよく決意したものだと思う。だけど躊躇いや不安は一切なかった。我が道を進むことは時に辛くもあるけれど、それを上回る楽しさが俺の道を照らすから。だから友達や家族と離れ離れになることも、アルゼンチンの国籍を取得したことも何一つ後悔はない。
ただ。
ただ、それでも一人。
ふとした拍子に思い出す人がいる。
南米の暑い日差しを受けて眩しさに目を細める時、瞼の裏に薄っすらと浮かぶ笑顔。もしあの時「好きだよ」と言っていたのなら何かが変わっていたのだろうか。花屋の前を通る時そんなことを思う自分がいる。
後悔とは似て非なる何かが心臓に刺さったまま、だけど、俺はその何かをどうすることも出来ずに今もなおサンファンの大地を踏みしめている。
『名字、宮城県内で一人暮らししてるらしいぞ』
岩ちゃんからそう教えてもらったのはオリンピックの為に日本へ向かう数日前の事だった。なんの前触れもなく記された名前を見て心臓が一瞬大きく脈打つ。まるで岩ちゃんに気持ちを見透かされているみたいだ。
『そうなんだ』
記憶の中で名字が楽しそうに笑って、俺は平然を装った。
『会わねぇのか?』
『今更会ってどうすんのさ』
『それもそうだな』
今更会ってどうすんのさ。そう思う気持ちに偽りはない。だけど同時に、今だから会うべきだと思う自分がいる。
制服に身を包んでいたあの時間に想いを馳せると鼓動が走るのを感じた。
――及川って推薦で大学進学するんだっけ?
――俺、大学にはいかないんだよね。南米のアルゼンチンに行く予定。
宮城に初雪が降った日。今となっては遠い高校時代。そう聞いた名字の声や、表情をよく覚えている。
名字は付き合うには至らなかったけれど俺にとっては特別な女の子だった。いや、もしかすると付き合うに至らなかったからこそ特別な女の子だったのかもしれない。
昔、告白しないのかとまっつんに聞かれたことがあった。だけど高校を卒業した後、アルゼンチンへ渡ることを決めていた俺に告白するという選択はなかった。互いに惹かれ合うものがあると理解しながら、言葉にすることはないその思いを冬空の下に晒した素肌だけは感じていた気がする。
『でもさ、もし俺が会いに行ったら驚くかな』
『そりゃあな』
『彼氏いるのかな』
『知らね』
もし今「好きだったんだよ」と告げたら。照りつける日差しの中、花屋の前を通り過ぎるとそう思う。想像するだけで心臓に刺さった何かが柔らかさを纏って、ほんの少しの寂しさと共に心は晴れるのもまた事実だった。
だから俺は密かに決めていた。
アルゼンチン代表として日本に戻れた時、名字が誰といてもどこにいてもこの気持ちを言葉にしようと。それはとても独りよがりで恋心と呼ぶことすら憚れるべきなのかもしれないけれど、青い感情の最果てに手を伸ばしたかった。
これは俺自身の為にも必要な行為――儀式だ。心臓に刺さった何かを消す為の、儀式。
そう思って会いに行ったつもりだった。オリンピックの全試合を終え、アルゼンチンへ戻る前に向かった宮城。通いなれた懐かしい道の真ん中で、名字は言った。
「今は、もう、好きじゃない?」
泣きそうな表情を携えて。
「あれから数年だけど、ちょっとは修羅場も、酸いも甘いも、挫折も苦労も経験したからさ、だから多分、あの時は付き合うに至らなかったけど、でも今なら結構いい線いけると思うんだよね」
「いい線」
「より良い雰囲気、みたいな。いや、なんか大人の付き合い? お互いを尊重する、的な……?」
心臓が熱を帯びる。名字に感化されたのか、少しだけ泣きたくなった。確かに酸いも甘いも経験した。いろんなことがあった。たくさんの人と出会って、多くのことを学んだ。俺はもう全部過去にするつもりだったのに、そんな風に言われたら揺らぐ。ここから始まるものがあると思ってしまう。
だけど、瞬間、理解した。
ここはきっと終着地ではない。青春の果てではなく、まだ途中なのだ。目の前にいる名字はあの頃のままの名字ではないし、名字の前に立つ俺もまたあの頃と同じ自分ではない。酸いも甘いも経験して、苦い恋だってした俺達だからこそ始められるものもきっとあるのだろう。
そういう風に新しい視点を持たせてくれるところ、昔から変わってない。ああ、そうだ。そうだった。俺はそういう名字が好きなんだった。脱力して腹を抱えて笑う俺に、名字は少し頬を赤らめた。
「ちょっと、及川! 私は真剣に話をしてるんだけど!」
「ああ、うん。ごめん。いや、名字ってこんな感じだったなって。変わってないなって」
改まるように名字を見つめる。大人びた顔つき。でもちゃんと残るあの頃の面影。この数年間、どんな時間を過ごしてきたんだろう。どんな風に大人になっていったんだろう。
それを知りたいと思う。そして、出来る事ならこれから先の時間を共有出来たら嬉しい。
「……これからも名字のこと好きでいていい?」
名字が強く頷く。遠く離れた青春がこちらに向かって笑いかけたような気がした。
ただ。
ただ、それでも一人。
ふとした拍子に思い出す人がいる。
南米の暑い日差しを受けて眩しさに目を細める時、瞼の裏に薄っすらと浮かぶ笑顔。もしあの時「好きだよ」と言っていたのなら何かが変わっていたのだろうか。花屋の前を通る時そんなことを思う自分がいる。
後悔とは似て非なる何かが心臓に刺さったまま、だけど、俺はその何かをどうすることも出来ずに今もなおサンファンの大地を踏みしめている。
『名字、宮城県内で一人暮らししてるらしいぞ』
岩ちゃんからそう教えてもらったのはオリンピックの為に日本へ向かう数日前の事だった。なんの前触れもなく記された名前を見て心臓が一瞬大きく脈打つ。まるで岩ちゃんに気持ちを見透かされているみたいだ。
『そうなんだ』
記憶の中で名字が楽しそうに笑って、俺は平然を装った。
『会わねぇのか?』
『今更会ってどうすんのさ』
『それもそうだな』
今更会ってどうすんのさ。そう思う気持ちに偽りはない。だけど同時に、今だから会うべきだと思う自分がいる。
制服に身を包んでいたあの時間に想いを馳せると鼓動が走るのを感じた。
――及川って推薦で大学進学するんだっけ?
――俺、大学にはいかないんだよね。南米のアルゼンチンに行く予定。
宮城に初雪が降った日。今となっては遠い高校時代。そう聞いた名字の声や、表情をよく覚えている。
名字は付き合うには至らなかったけれど俺にとっては特別な女の子だった。いや、もしかすると付き合うに至らなかったからこそ特別な女の子だったのかもしれない。
昔、告白しないのかとまっつんに聞かれたことがあった。だけど高校を卒業した後、アルゼンチンへ渡ることを決めていた俺に告白するという選択はなかった。互いに惹かれ合うものがあると理解しながら、言葉にすることはないその思いを冬空の下に晒した素肌だけは感じていた気がする。
『でもさ、もし俺が会いに行ったら驚くかな』
『そりゃあな』
『彼氏いるのかな』
『知らね』
もし今「好きだったんだよ」と告げたら。照りつける日差しの中、花屋の前を通り過ぎるとそう思う。想像するだけで心臓に刺さった何かが柔らかさを纏って、ほんの少しの寂しさと共に心は晴れるのもまた事実だった。
だから俺は密かに決めていた。
アルゼンチン代表として日本に戻れた時、名字が誰といてもどこにいてもこの気持ちを言葉にしようと。それはとても独りよがりで恋心と呼ぶことすら憚れるべきなのかもしれないけれど、青い感情の最果てに手を伸ばしたかった。
これは俺自身の為にも必要な行為――儀式だ。心臓に刺さった何かを消す為の、儀式。
そう思って会いに行ったつもりだった。オリンピックの全試合を終え、アルゼンチンへ戻る前に向かった宮城。通いなれた懐かしい道の真ん中で、名字は言った。
「今は、もう、好きじゃない?」
泣きそうな表情を携えて。
「あれから数年だけど、ちょっとは修羅場も、酸いも甘いも、挫折も苦労も経験したからさ、だから多分、あの時は付き合うに至らなかったけど、でも今なら結構いい線いけると思うんだよね」
「いい線」
「より良い雰囲気、みたいな。いや、なんか大人の付き合い? お互いを尊重する、的な……?」
心臓が熱を帯びる。名字に感化されたのか、少しだけ泣きたくなった。確かに酸いも甘いも経験した。いろんなことがあった。たくさんの人と出会って、多くのことを学んだ。俺はもう全部過去にするつもりだったのに、そんな風に言われたら揺らぐ。ここから始まるものがあると思ってしまう。
だけど、瞬間、理解した。
ここはきっと終着地ではない。青春の果てではなく、まだ途中なのだ。目の前にいる名字はあの頃のままの名字ではないし、名字の前に立つ俺もまたあの頃と同じ自分ではない。酸いも甘いも経験して、苦い恋だってした俺達だからこそ始められるものもきっとあるのだろう。
そういう風に新しい視点を持たせてくれるところ、昔から変わってない。ああ、そうだ。そうだった。俺はそういう名字が好きなんだった。脱力して腹を抱えて笑う俺に、名字は少し頬を赤らめた。
「ちょっと、及川! 私は真剣に話をしてるんだけど!」
「ああ、うん。ごめん。いや、名字ってこんな感じだったなって。変わってないなって」
改まるように名字を見つめる。大人びた顔つき。でもちゃんと残るあの頃の面影。この数年間、どんな時間を過ごしてきたんだろう。どんな風に大人になっていったんだろう。
それを知りたいと思う。そして、出来る事ならこれから先の時間を共有出来たら嬉しい。
「……これからも名字のこと好きでいていい?」
名字が強く頷く。遠く離れた青春がこちらに向かって笑いかけたような気がした。