壁一面の本棚に私はいつも恍惚とする。
 規則性のない本の配置は出版社やシリーズ毎に並んでいる事は1度たりともなくて、大きさも行き先もバラバラなのに、何故かそれは不思議と調和して1つのアートのように店内の空間を作り上げていた。
 所謂、ブックカフェ。旅行本に特化した。
 定期的に国内外問わず一人旅を繰り返す私にとっては最高に居心地の良い場所で、そういう本ばかり置かれているから、やってくるお客さんもきっと旅が好きな人たちばかりなんだと思う。

(このガイドブックが読みたいのに! くっ……届かない)

 シンプルなピアノのクラシック曲が流れる店内は、まばらに人が埋まっている。
 再来月あたりにまとまった休みがとれそうだから、その時のために次の行き先を決めようと久しぶりにやってきたブックカフェの本棚は相変わらず混沌としていた。
 テーブルに置かれたコーヒーに留守番を頼んで、手を伸ばしたのは本棚の一番上の棚。手を伸ばす前からなんとなく届かないかもとは思っていたけど。

「これですか?」
「えっ」

 仕方ない脚立でも借りよう、と早々に諦めた時、後ろから腕が伸びてきた。頭上から降ってくる声に驚きながらも、反射的に振り返り私に影を落とした人の顔を見つめる。ハッと息を呑んだのは2人同時だ。

「あ! いや! 取るの大変そうだったんで! つい! 決して何かをしようというわけでは!」
「は、はい」

 柔らかいバリトンの声。見上げた先にある表情は顔面蒼白と言っても過言ではない程焦りに満ちていた。悪いことはしませんと主張するように両手を挙げているのを見て私はつい笑ってしまいそうになった。

「す……すみませんでした……」

 紡ぐ言葉は見た目とは裏腹に覇気なく萎んでいく。一見すると結構怖いお兄さんのようにも思えるのに、ああこの人きっと良い人だなと一瞬で分かってしまうくらいその人は低姿勢だった。

「一番上の本が取れなくて困ってたんです。良かったら取ってもらってもいいですか?」
「えっ……あ、も、もちろんです」

 だからそうお願いすることに躊躇いも戸惑いも生まれなかったんだと思う。すんなりと言葉は口から出てきて、すんなりと読みたかった本が私の手の中に収まった。

「行ったことありますか、エジプト」
「え」
「ほら、女一人でエジプトって聞くと心配されがちじゃないですか。もし行ったことあったら体験談聞きたいなって思って」

 勇気を総動員させたわけではない。でも私の中の何かがこの人ともっと話がしたいと望んだ。
 驚いた様子のその人は、だけど私の質問を無視するでもなく「あります」とだけ答えた。双眸は今も戸惑いの色を携えたまま私を映している。もしかして迷惑だったかな。旅行をしていると他人に話しかけることに躊躇いがなくなってしまうから、つい踏み込みすぎてしまっているような気がして私はようやくこの時になって焦りを覚えた。

「ごめんなさい、急に。迷惑でしたよね。せっかく本とってもらったんだし、これで色々確認してみます」

 スフィンクスとピラミッドの写真が表紙に選ばれたエジプトのガイドブックをパラパラと捲る。私が欲しい情報はこの中にある。なにもこの人でなくとも……。そう思う私にその人は言った。瞳は少し揺らいでいた。

「あの、俺でよければ話、します」






「東峰さんはよく旅行に行かれるんですか?」
「友達……あ、高校の後輩なんですけど、が、ビュンってどこにでも自由に飛んでいくような奴で、大体はソイツと一緒に」

 なるほど、とすっかり温くなったコーヒーを飲みながら頷いた。一人旅も自由気ままで楽しいけれど、旅先で親しくなった人は大抵一期一会だから一緒にどこまでも自由に行ける相手がいるのはちょっと羨ましい。

「チケットとかホテルとか任せっきりなんで名字さんみたいに一人で行くってことはないです。女性の一人旅は男の一人旅より大変だと思うし、俺なら不安で寝れない毎日が続きそうだなって」
「あはは。最初は苦労したんですけど、最近は逞しくなって一人で大方できるようになっちゃいました。可愛げがなくなった気もするんですけど」

 東峰旭さんは、とても穏やかに話をしてくれる人だった。私が聞きたい話を丁寧に教えてくれて、私の言葉をしっかりと受け止めてくれる。長い髪の毛が頬をすべるように落ちた時も、東峰さんは相槌を打つのを忘れなかった。

「なんか、あれですね。東峰さんと一緒に旅したら楽しそうですね」
「え、お、俺!? ですか……?」
「あっ! いえ、ほら、ホステルとかで気が合う人と次の日一緒に観光したりするじゃないですか。そういう感じで、東峰さんとなら楽しく観光できそうだなって」
「そういう風に言われたのは初めてです。ハハ……恥ずかしいもんですね」

 ピアノの音に混ざり馴染んだ声が耳に届く。人柄を表すように、はにかんだ笑顔は柔らかい。多分それが決定打だった。この人をもっと知りたいと思ったのは。

「東峰さんのおすすめの国、教えてください」
「え?」
「今までどんな景色を見てきたのかなって、興味が湧きました。迷惑じゃなければ私もっと東峰さんのこと知りたいです」

 東峰さんは瞬きを繰り返した。私の言葉の意味を噛み砕こうとしているのだろう、ただじっとその瞳に私を映している。それは旅のはじまりの高揚感に似ていた。未知への不安と期待。この旅から何を与えられるのだろうというトキメキ。

「あ! ごめんなさい……やっぱり急でしたよね!? 自分の言葉は臆せず伝えないと駄目だって学んでからはっきり伝える癖ついちゃって……でも、ほら、あれです! あんまり大袈裟に考えすぎない様にしろよってスナフキンも言ってたんで、こう、ラフな感じで受け止めてくれれば!」
「スナフキン!?」
「旅人です。北欧の」

 至極真面目に言うと、東峰さんはこれまでの戸惑いを全て置き去りにしたように笑った。

「名字さんは、なんていうか、自由ですね」
「……そうですか?」
「少し似てます、後輩に」
「それは……なんだか恐れ多いですね」

 迷うように視線を巡らせた東峰さんは、深呼吸をしてから私の名前を呼ぶ。

「あの、名字さん」
「はい」
「コーヒーのおかわり、どうですか」
「えっ」
「俺も……名字さんともう少し話が出来れば良い……な、と……」

 その瞳と緩く結ばれた髪の毛に私が見惚れている事に気が付かない東峰さんの声はまたしてもゆっくりと萎んでいった。
 その様子が微笑ましくて、笑ってしまうのを私はまた我慢しながら頷く。

「はい、ぜひ!」

 この時、東峰さんが勇気を総動員させていたと知るのは、もっとずっと先の話。

(21.06.11 / 80万打リクエスト企画)