大地に染み入るような雨がしとしとと降り続いている。校舎の廊下から見える灰色の空はどっしりとした存在感があって、いくら待てどもその灰色がそこから動く様子はなかった。
夕刻4時。まだ7月なのに夏至を過ぎているなんて時々なにかの間違いじゃないかと思う。これからようやく本格的な夏がやってくると言うのに、太陽の出ている時間が最も長い日が終わったなんて、絶対に計算ミスだとしか思えない。
「あ、北だ」
いつもよりも仄暗い生徒玄関にいたのは北だった。3年間クラスが一緒の同級生。バレー部の主将で、頭が良くて、人望もある、私の友達。
「名字か」
「北、部活は?」
「今日休息日やねん」
「そうなんだ。今帰り?」
「おん」
手には深い藍の傘を持っていて、私は思わず凝視した。いいな。羨ましい。こんな雨の中でも傘さえあれば難なく駅へ迎える。
「……傘、持ってないん?」
「えっ」
「むっちゃ見とるから」
「えへへ……実は忘れちゃってどうしようかなぁって悩んでたところだったんだ」
もし北が折りたたみ傘をっていたら。図々しくも、そんな一抹の望みを持って北を見つめる。
「せやったら、一緒に帰るか」
「えっ」
「ここで待っとっても今日は雨止まんし、駅まで行ったらビニール傘買えるやろ」
純粋な親切心が滲む瞳。
躊躇うこともなく徳を積む行為を出来る北みたいな人間に私もなれるといいのに。ふいにそんなことを思った。同じ高校3年生なのに、北は時々びっくりするくらい大人びて見えるのだ。
「いいの? 助かる! ありがとう!」
子供のように、ただただ北の厚意に甘えた。ありがとう、3年間の友情。ありがとう、北の優しさ。
▼
▼
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時々ぶつかる肩が、なんだか変な感じだった。
「ねぇ見て。あそこのパン屋さん美味しそう! 最近出来たのかな?」
「ほんまやなあ」
「そういえば知ってる? この前学校の近くの公園でドラマの撮影してたんだって! 誰きてたのかなぁ。北知ってる?」
「知らんなあ。やけど、そんな事を部活の後輩が言っとった気するわ」
「今日の化学の授業すごく眠くてずっと眠気と格闘してたから全然頭に入ってこなかったんだよね。ごめんだけど今度北にわかんないところ聞くかもしれない」
「ええけどあんまり夜ふかししたらアカンで」
「ていうかね、この間めちゃくちゃ可愛い折りたたみ傘買ったの! なのに忘れちゃったんだよ。だから本当に今日悔しくて」
「そうやったんか。そら悔しいな」
「あ! 待って今日駅ナカのアイス屋さんキャンペーンやってない? やってるよね? 北、一緒に行こうよ、傘入れてくれたお礼におごる!」
学校を出て数十分。勢いを緩めることも増すこともない雨は、絶えず降り続いている。
北とこんな風に下校するのは初めてだったけれど、気まずさも、居心地の悪さも何もなかった。
むしろどこか心地良ささえ感じる空気感に、駅についてこの時間が終わってしまうのは名残惜しいとすら思う。
「名字は、元気やな」
「え?」
あと少しで駅に辿り着く、というタイミング。北はそう言い、力を抜いた緩い笑みを見せた。
「表情豊かやから見てて飽きひんわ。途中、水溜りに足突っ込みそうやったからヒヤヒヤしたけど」
「北、ヒヤヒヤしてたの? あはは、ちょっと面白い」
そして北は独り言のように言う。
「俺とは見えとる景色が全然ちゃうんやろうなあ」
「見える、景色?」
北の言葉を反芻した。
北とは3年間クラスが一緒っていうだけで特別に親しいというわけではなかったけれど、北が真面目で、実直で、俯瞰性を持っていて、誰に対しても優しい人間だということはよく知っている。そして時々、年相応の笑顔で笑うこともまた、私は知っている。
北と私の見える世界は、そんなにも違うものなんだろうか。北には世界がどんな風に見えてるんだろう。私はどんな風にその瞳に写っているんだろう。
見つめ続けていると、ふと、北の右肩が濡れていることに気が付いた。
「わっ北の肩濡れてない!? ごめん気が付かなかった!」
「ん? ああ、ええねん。女の子濡らすわけにはいかんやろ」
「男の子だからって濡れていい理由にはならないよ! 本当にごめん!」
駅の構内に入って慌ててハンカチを取り出すと、北は「大丈夫やから」と言って私をやんわりと止める。見上げた先にある北の落ち着いた、凪ぐような柔らかい表情。
何故かこの瞬間、この3年間で感じたことのない感覚を突如として感じた。縁取るにはまだ青いその感情を人は何と呼ぶんだっけ。
「名字?」
「え! あ、あー、えっと……北の見える景色がどんなのか私にはわかんないけど、でも、一緒に食べるアイスは絶対、甘くて美味しいと思う」
見える景色が違うと言うなら、北から見える景色を教えてよ。そんなこと、言えるわけもなく。
「だから、もうちょっと私に付き合って」
見つめ合う。北は瞬きを繰り返して、また柔らかく笑った。私と同じ、高校3年生らしい笑顔で。
「女の子と学校帰りにアイス食べるん初めてや」
その声は注ぐ雨のように、しっとりと耳に染み入った。
(21.07.02 / 80万打リクエスト企画)
夕刻4時。まだ7月なのに夏至を過ぎているなんて時々なにかの間違いじゃないかと思う。これからようやく本格的な夏がやってくると言うのに、太陽の出ている時間が最も長い日が終わったなんて、絶対に計算ミスだとしか思えない。
「あ、北だ」
いつもよりも仄暗い生徒玄関にいたのは北だった。3年間クラスが一緒の同級生。バレー部の主将で、頭が良くて、人望もある、私の友達。
「名字か」
「北、部活は?」
「今日休息日やねん」
「そうなんだ。今帰り?」
「おん」
手には深い藍の傘を持っていて、私は思わず凝視した。いいな。羨ましい。こんな雨の中でも傘さえあれば難なく駅へ迎える。
「……傘、持ってないん?」
「えっ」
「むっちゃ見とるから」
「えへへ……実は忘れちゃってどうしようかなぁって悩んでたところだったんだ」
もし北が折りたたみ傘をっていたら。図々しくも、そんな一抹の望みを持って北を見つめる。
「せやったら、一緒に帰るか」
「えっ」
「ここで待っとっても今日は雨止まんし、駅まで行ったらビニール傘買えるやろ」
純粋な親切心が滲む瞳。
躊躇うこともなく徳を積む行為を出来る北みたいな人間に私もなれるといいのに。ふいにそんなことを思った。同じ高校3年生なのに、北は時々びっくりするくらい大人びて見えるのだ。
「いいの? 助かる! ありがとう!」
子供のように、ただただ北の厚意に甘えた。ありがとう、3年間の友情。ありがとう、北の優しさ。
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時々ぶつかる肩が、なんだか変な感じだった。
「ねぇ見て。あそこのパン屋さん美味しそう! 最近出来たのかな?」
「ほんまやなあ」
「そういえば知ってる? この前学校の近くの公園でドラマの撮影してたんだって! 誰きてたのかなぁ。北知ってる?」
「知らんなあ。やけど、そんな事を部活の後輩が言っとった気するわ」
「今日の化学の授業すごく眠くてずっと眠気と格闘してたから全然頭に入ってこなかったんだよね。ごめんだけど今度北にわかんないところ聞くかもしれない」
「ええけどあんまり夜ふかししたらアカンで」
「ていうかね、この間めちゃくちゃ可愛い折りたたみ傘買ったの! なのに忘れちゃったんだよ。だから本当に今日悔しくて」
「そうやったんか。そら悔しいな」
「あ! 待って今日駅ナカのアイス屋さんキャンペーンやってない? やってるよね? 北、一緒に行こうよ、傘入れてくれたお礼におごる!」
学校を出て数十分。勢いを緩めることも増すこともない雨は、絶えず降り続いている。
北とこんな風に下校するのは初めてだったけれど、気まずさも、居心地の悪さも何もなかった。
むしろどこか心地良ささえ感じる空気感に、駅についてこの時間が終わってしまうのは名残惜しいとすら思う。
「名字は、元気やな」
「え?」
あと少しで駅に辿り着く、というタイミング。北はそう言い、力を抜いた緩い笑みを見せた。
「表情豊かやから見てて飽きひんわ。途中、水溜りに足突っ込みそうやったからヒヤヒヤしたけど」
「北、ヒヤヒヤしてたの? あはは、ちょっと面白い」
そして北は独り言のように言う。
「俺とは見えとる景色が全然ちゃうんやろうなあ」
「見える、景色?」
北の言葉を反芻した。
北とは3年間クラスが一緒っていうだけで特別に親しいというわけではなかったけれど、北が真面目で、実直で、俯瞰性を持っていて、誰に対しても優しい人間だということはよく知っている。そして時々、年相応の笑顔で笑うこともまた、私は知っている。
北と私の見える世界は、そんなにも違うものなんだろうか。北には世界がどんな風に見えてるんだろう。私はどんな風にその瞳に写っているんだろう。
見つめ続けていると、ふと、北の右肩が濡れていることに気が付いた。
「わっ北の肩濡れてない!? ごめん気が付かなかった!」
「ん? ああ、ええねん。女の子濡らすわけにはいかんやろ」
「男の子だからって濡れていい理由にはならないよ! 本当にごめん!」
駅の構内に入って慌ててハンカチを取り出すと、北は「大丈夫やから」と言って私をやんわりと止める。見上げた先にある北の落ち着いた、凪ぐような柔らかい表情。
何故かこの瞬間、この3年間で感じたことのない感覚を突如として感じた。縁取るにはまだ青いその感情を人は何と呼ぶんだっけ。
「名字?」
「え! あ、あー、えっと……北の見える景色がどんなのか私にはわかんないけど、でも、一緒に食べるアイスは絶対、甘くて美味しいと思う」
見える景色が違うと言うなら、北から見える景色を教えてよ。そんなこと、言えるわけもなく。
「だから、もうちょっと私に付き合って」
見つめ合う。北は瞬きを繰り返して、また柔らかく笑った。私と同じ、高校3年生らしい笑顔で。
「女の子と学校帰りにアイス食べるん初めてや」
その声は注ぐ雨のように、しっとりと耳に染み入った。
(21.07.02 / 80万打リクエスト企画)