あ、そろそろアイシャドウがなくなるから買わないといけないんだった。デート中にそんなことを思い出したのは多分、そよ風に乗った柔らかい金木犀の香りのせいだと思う。
 ただひたすらに暑い夏をようやく乗り越え、汗崩れを気にせずメイクが出来るようになったのは本当に嬉しい。繋がる指先の体温を意識しながら口を開く。

「あのね、アイシャドウ新しいの買いたいからデパート寄ってもいい?」
「わかった」

 ありがとう、の「あり」まで言ったところで賢二郎のカバンの中にあるスマホが音を鳴らした。嫌な予感。違うか。「予感」ではなくて「確信」だ。カバンに手を伸ばす賢二郎の横顔を私はただ見つめるだけ。

「……オンコール」

 ほらね、やっぱりオンコール。それはつまり病院への出勤要請が出たということだ。
  
「このタイミングでかぁ」
「悪い。行かねえと」

 賢二郎は声のトーンを沈ませて謝罪の言葉を述べた。別に、慣れた。研修医1年目の秋。賢二郎とのデートはだいたいいつもこんな形で打ち切られる。

「仕事だし仕方ないよ。私はデパートで行ってから帰るから、賢二郎は病院行って」
「本当、悪い。処置終わって落ち着いたら連絡するから」

 当直があったり勉強会があったり、なかなか時間の取れない中での久しぶりのデートだった。言った言葉に嘘はないけれど虚しさや悲しさがないとは言い切れない。
 駅へと駆け足で向かってゆく賢二郎の後姿を見送って、私は歩み始めた。そよぐ風も金木犀の香りもさっきと同じなのに足取りだけが牛歩のように遅い。

 こうなったらもう、いつもよりお高いアイシャドウを買うしかない。

 昨日入金された給料を思い出してどうにか自分の感情の手綱を握る。本当は一緒に美味しいご飯も食べたかったし、一緒にどちらかの部屋に行って人目を気にせず寛ぎたかった。どうしたって叶わない時間を想像して、ため息が出そうになるのをこらえた。
 大人の恋はいつも第三者によって振り回される。






 黒のケースの中に並ぶ4色のプレストされたパウダーを見つめて恍惚とした。各色たった数グラムの量が、私を可憐に変身させ、気分を持ち上げてくれる。

 色、結構迷っちゃったけど、これで正解だった。

 テーブルに置かれたブランドのショッパー。もらった基礎化粧品のサンプルをそのままに、私は日中購入したアイシャドウで自分の瞼を彩った。こんな時間から出かける予定はないし会う人もいないけれど、これは自分の為の儀式だから良い。
 優しく瞬きを繰り返す。乗せたアイシャドウを意識するように、丁寧に。
 上と下のまつげが幾度か触れ合う中、部屋にインターホンの音が鳴り響いた。ここから見える位置にあるモニター。映し出されたのはオンコールで呼び出されているはずの賢二郎だった。私は慌てて玄関ドアの解除キーを押す。
 今日はもう病院から自分の部屋に直帰すると思ってたのに。急いで部屋の乱れた部分を正して髪を櫛で梳く。程なくして部屋のインターホンを鳴らす音が聞こえて、私は確認もせずにドアを開けた。その姿を目に入れて弾くように私の心は華やいだ。
 パレットみたいに色が宿る。

「今日はもう会えないかと思ってた」
「思ったより早く終わった。連絡見てないのかよ。自分のところ帰る前に名前に会いに行くって」
「スマホ充電してて近くに置いてなかったから気が付かなかったのかも」
「これ、上の人からもらったから食おうぜ」
「なに?」
「ケーキ」
「おお。やったあ」
「中、入っていい?」
「あ、うん。もちろん!」

 玄関から部屋の短い廊下を渡り、決して広いとは言えない寝室兼リビングに大人2人が収まる。一人暮らし用の部屋なんてこんな風に窮屈なのが一般的だと思う。
 もらったケーキをお皿に移してフォークと一緒にテーブルに置いて、紅茶を淹れるためのお湯が沸くあいだ、私は賢二郎の隣に腰を下ろした。
 今更、互いに緊張することなんてもはやあり得ないけれど、こうして傍にいることで感じる心地良さは時間を重ねることで増えてゆく気がする。つけていたテレビの音量を少しだけ下げると、賢二郎は私のほうに顔を向けて言った。

「で、なに可愛く化粧してんだよ」
「え」
「いつもこの時間なら風呂入って化粧も落としてんだろ」
「新しいアイシャドウ買ったから」
「昼間言ってたやつ?」
「うん。普段よりもちょっと良いやつ」

 私の瞼に賢二郎の視線が集中する。

「ふうん。良いじゃん。似合ってる」

 柔らかく微笑む。春の昼下がりのような穏やかな眼差しを向けてもらえる自分を、愛しく思える。他人に深く愛されることの安心感を教えてくれる賢二郎を私は今日も好きだと思った。

「でしょ。私も気に入ってるから褒めてもらえるの嬉しい」

 場面を切り替えるようにカチッとケトルが音をたてて、水が沸騰したことを知らせてくれる。立ち上がろうとする私を制して、賢二郎はとても短いキスをした。

「紅茶、俺が淹れる」

 感覚だけを残して賢二郎は背を向ける。薄く漂う紅茶の甘い香りはまるでさっきのキスみたいだと思いながら、陶器の音に耳を傾けた。
 人目を気にせず寛げる時間。大人の恋は案外、簡単に穏やかさを取り戻す。

(21.08.14 / 80万打リクエスト企画)