師事したい人がいるからアメリカのカリフォルニア州に行くとはじめに告げられた時、私はのんきに「お土産は何を買ってきてもらおうかな」なんてことを考えていた。
 1週間や10日で戻ってくるものとばかり思っていたのだ。だって前回の渡米だってそうだったし。今回のそれだってまた同じようなものだと思い込んでいた。
 大学4年生、初夏。一人暮らしの私の部屋に遊びに来てくれたはじめは私の幼馴染であり、恋人でもある。小さいころから変わらない短く揃えられた髪の毛。この夏もまた、そのえりあしを夏風が優しく撫で上げることだろう。

「卒業旅行も兼ねて? また一人で行くの?」
「いや、いつこっち戻ってくんのかは未定」
 
 いくつかのお祈りメールを経てようやく先日内定をもらったばかりの私は、これからも変わらずはじめと一緒にいられることを疑っていなかった。
 つり上がった目尻。揃うまつ毛。はじめの三白眼は私の姿をしっかりと映す。その瞳に込められた意思の強さに、はじめが「未来」の話をしようとしていることを理解した。
 内定を貰って浮足立っていた心が、地に着く気分。ここ最近はずっと自分のことに精一杯ではじめの就活の進捗を聞くことが出来なかったけれど、はじめがアメリカに行くなんて想定していなかった。

「未定……」

 辛うじて紡げたのは鸚鵡返しの言葉。はじめの言わんとすることを理解して、一瞬だけ私の世界がピタリと止まる。部屋に満ちていた空気が色を変えた。
 ああ、そっか。はじめも徹と同じように海外へ行く選択をしたのか。

「名前には寂しい思いもさせちまうかもしんねぇけど、できるだけそれが少なくなるよう俺も努力するし――」

 声に耳を傾けながらゆっくりと瞬きを数回繰り返す。応援の言葉くらい言いたいのに、私の中の何かが通せんぼして声は出ない。
 寂しいって言ったら絶対にはじめを困らせてしまう。でも真っ先に込みあがった感情は「寂しい」だ。溢れる前に蓋をしようと、私はテーブルに置かれたスミレの砂糖漬けが入った小さな缶を取った。
 所狭しと敷き詰められたスミレ。紫の小さな花。口に入れた瞬間にコーティングされた砂糖はくしゃりと溶け、小さく可憐な花は存在を主張するように香りを放つ。
 胸を締め付けるような甘さは、はじめの優しさみたいだと思った。

「何食ってんだ?」
「……スミレの砂糖漬け。叔母さん、先週オーストリアに旅行してて。そのおみやげ」
「甘い香りする」
「味も甘いよ」
「だろうな」

 スミレの花がほろほろと口の中で崩れてゆく。
 来年、はじめは日本にいない。いつ戻ってくるのかわからないし、今みたいに気軽に会うことも出来なくなる。SNSで見た可愛いカフェに一緒に来てもらうことも、私のウィンドウショッピングに付き合ってもらうことも、全然知らないジャンルの映画を観に行くことも簡単に出来なくなってしまうのだ。
 まだ実感はないけれど、そういうことなんだろう。徹がアルゼンチンに行った時とはまた違う寂しさを私は味わうのだろう。

「はじめ」
「ん?」

 スミレの香りに翻弄されるように、私は口を開いた。

「……寂しい」

 耐えきれずその言葉を言ってしまう。ハッとしてその顔を見ると、はじめは眉間に皺を寄せていた。やっぱり困らせてしまったと、慌てて謝ろうとした私の頭にはじめの手のひらが置かれる。

「言うのが遅くなって悪かった」

 優しくも切なく、その言葉は私の胸を締め付ける。鼓膜を突き抜けてその声色は頭の中で膨らむから、私は何も言わずに首を横に振った。
 私が就活に悩んでいたことをはじめはよく理解してくれていたし、今日に至るまで何も告げなかったのは私への配慮もあったのだろう。はじめが優しい人だということは私がよく知っている。私のことを大切にしてくれる人であることも、バレーボールが大好きな男の子だということも。
 そしてそういうはじめを、私はどうしたって好きなのだ。
 
「……確認だけど、これ別れ話とかじゃないよね?」
「ハァ!? んなわけねーべや。なんでそんな飛躍すんだよ!」
「だって、遠距離になるわけだし、はじめがそんな薄情な人だとは思ってないけど、もしかしたら万が一……いや億が一、と思って……」

 長く深いため息。

「俺は、これから先もお前と別れる気はねぇ」
「うん」
「さっき言ったように寂しい思いさせちまうだろうし、大変なこともあるだろうけど、名前となら、まあ、なんつーか……ほら。……あー、だから、つまり」
「つまり?」
「……乗り越えられんだろ」

 萎む言葉尻。言いなれないセリフが気恥ずかしいのか、はじめの耳は赤く染まってた。
 単純に好きだなと思う。好き。はじめが好き。例えアメリカへ行ったとしても。
 だから言葉は自然と紡がれる。

「頑張ってね」
「名前……」
「はじめの夢、応援してる」
「おう」
「あと……すぐに頑張れって言えなくてごめんね」

 はじめの分厚い手のひらが頬に添えられた。体温が混ざり合って、触れ合ったその場所だけが形を無くしたみたいに朧なものとなる。
 存在を確かめるように親指の腹で一度だけ優しく頬を撫でて、はじめは顔を寄せた。スミレをまとった私は、はじめの口の中でどんな風に溶けたのだろうか。

「甘ぇ……」

 優しく私の心を抱きしめるか細い声が、この世界の色を変える。
 紫の愛は波紋のように広がった。

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