今年もこの季節がやってきた。
 年に一度、人々がチョコレートに熱狂する季節。日本に常設店のないチョコラトリーやバレンタイン限定の商品たちが所狭しと並ぶ、甘くて素敵な数日間。この時のために働いていると言っても過言ではないほど、私はこの時期を待ち焦がれていた。
 万札と魔法のカードを握りしめ踏み入れたのはカカオの香り漂う催事場。ここは私にとっての戦場。負けてはならない戦いがここにはあるのだ。

「この後、リヨンソーのショコラティエが来場しますのでぜひこの機会にお買い求めください」

 そんな声が届いたのは、お目当てのものを概ね手に入れた時だった。戦場を駆け抜け、最後にもう一度買い忘れがないかをチェックしようとしていた私はその声に耳を傾ける。
 リヨンソー。パリに本店を構えるショコラトリー。希少性を狙ってか未だ日本国内に常設店はないものの、ショコラティエのサトリ・テンドウは日本人男性と言うこともあって日本でも絶大な人気を誇っている。

 ――そっか。天童くん、来るんだ。確かに他のお店のショコラティエだって来日しているし、天童くんが日本にいたっておかしくない。

 そんなことを考えている間に、辺りは人でいっぱいになる。なんという絶妙なタイミングだろうと思うものの、リヨンソーのチョコはすでに手に入れていたし、今の私には列に並ぶ理由はない。でも、かつての同級生として挨拶を交わすくらいしても良いんじゃないだろうか。悩む私に声がかかる。

「お客様。こちらへお並びください」
「え、あ、はい」

 列に並ぼうとしている人と勘違いしたのか、お店の人が私を列に誘導する。違いますとはっきり言えば良いものの、つい流されて最後尾に立ってしまった。別に、リヨンソーのチョコは美味しいからもう一つ買うとなっても問題はないんだけれど。
 そんな風に悩んでいる間にも列は進み、あという間にその瞬間は訪れた。

「あれ、名前ちゃん?」
「久しぶりだね、天童くん」
「え〜もしかして俺に会いに来てくれたカンジ?」

 会うのは2年ぶり。私がパリへ旅行に行って、リヨンソーの本店を訪れた時以来。これだけたくさんのお客さんがいるし、サインを書くのに忙しそうだし、もしかすると気付かれないかもと思ったけれど一目で天童くんは私だとわかったようだった。

「って言いたいところだけど偶然で」
「アハハ。残念」
「リヨンソーのチョコはもう買ったんだけど、天童くん来てるって言うからせっかくだし追加購入しようと思って。天童くんのおすすめの一箱お願いします」
「じゃあ、名前ちゃんには特別なやつにしてあげる」

 天童くんはちょうど中間の価格帯の箱を手に取って、さらりとペンを走らせる。一体、なにが特別なのだろう。並べられた箱を手に取って、それまでの人にそうしてきたようにサインを書いているし、特別な事をしているようには思えないけれど。

「またパリに来ることがあったら連絡してよ。案内してあげる」
「うん、ぜひ」

 瞬間、学生時代に天童くんの事を好きだった気持ちを思い出した。甘くて、でもちょっと苦くて、知ってしまうと簡単には逃れる事のない恋の味。天童くんと仲良くなれたはものの、付き合うには至らなかったあの時間は、だけど、私にとってとても大切な思い出だ。
 お金を払って、ショッパーに入れられたチョコを受け取る。

「名前ちゃん」
「うん?」
「またね」
「会えてよかった、天童くん」
「俺も」

 天童くんの不敵な笑みに見送られ、催事場を後にする。また、いつか、カカオの香り漂うどこかで会えたらいい。
 重たい戦利品と軽い足取り。
 天童くんの言う「特別」がサインの横に添えられたハートマークだとわかるのは、家に帰ってリヨンソーのチョコレートをひとつ口に運んだ時だった。