「……さん……名前さん」

 ゆらゆらと心地よい振動の中で、柔らかい声が耳に届く。ああ、赤葦くんの声だ。

「……は、い」
「名前さん起きてください。もう駅に着きますよ」

 その言葉に意識が弾け、慌てて瞼を上げた。そうだ、ここは電車の中。寝過ごしてはならない。

「ごめん、寝ちゃってた。起こしてくれてありがと」

 普段は電車で寝てしまうことはないのに、ここ数日は寝不足が続いていたせいか船を漕いでいたようだ。赤葦くんが隣にいてくれてよかった。
 部活の後輩に迷惑をかけしまう事は申し訳ないと思うものの赤葦くんは私よりしっかりしているからつい気を抜いてしまったというところも、まあ正直、否めない。

「寝不足ですか?」

 電車を降り、改札を出てバス停に向かう道すがら、赤葦くんは心配そうに私を見つめる。

「ここ最近夜更かしする事が多くて」
「目の下にクマが出来るくらい夜更かししてるんですか?」
「えっ、うそ」
「本当です」
「……今日は早く寝るようにする」

 クマはさすがにやばい。言いながらあくびもこぼれてしまったし、嫌が応にも今日は早くベッドへ入る事になりそう。それにマネージャーの私がプレーヤーの赤葦くんにこんな形で心配かけてしまうのはいくらなんでも情けないし。

「あのバス、赤葦くんの乗るやつだよね?」

 駅前の大通り。真っ直ぐに伸びる道路の奥にバスのランプが見える。いつの間にか自分の乗るバスの系統番号だけじゃなくて、赤葦くんの乗る系統番号も覚えてしまった。バス停の手間の赤信号で止まったバスを見つめながら、じゃあまた明日、と口を開きかけたその時、

「心配なんで最後まで送ります」

 と、赤葦くんが言った。

「え。いや、でも、バス違うし」
「戻って乗り換えるんで大丈夫です」
「そういうことではなく!」

 仮に私を家まで送ったとして、そこから赤葦くんの自宅に戻るとなったらおそらく1時間はかかるはず。部活終わりで疲れているんだから早く帰って休んだほうがいい。聡明な赤葦くんは私が言わずともわかってそうなのに。

「名前さん、バスで眠るつもりですよね? また寝過ごしたらどうするんですか」
「それは……」

 私の目論みはどうやら赤葦くんにお見通しだったらしい。

「だから最後まで送ります」
「気持ちは嬉しいけど本当に大丈夫だよ。赤葦くんが心配ならバスの中で絶対に寝ないように頑張るし」
「なら言い方を変えます。送らせてください。俺が名前さんを送りたいんです」

 反論する余地のない言い方。普段とは少し違う強引な言葉選びに思わず頷いてしまいそうになった。

「ほら、名前さんの乗るバスも来ましたよ」

 そして、月明かりに照らされた優しい表情に、結局私は負けた。
 赤葦くんの乗るはずだったバスを見送って、次にやってきた私がいつも乗っているバスへ乗り込む。過ぎ去る景色はいつもと同じなのに、赤葦くんが隣にいる事への不思議さが奇妙な胸の高鳴りをもたらす。

「寝てもいいですよ。停留所に着いたら起こすので」

 眠れるだろうか。こんな心情で。こんな状況で。
 だけど、このまま起きて赤葦くんと会話を交わすのも恥ずかしくて、私は逃げるように瞼を下した。バスの振動で時々触れ合う肩と肩が、私の気持ちを一層昂らせる。やっぱりこんなの眠れるわけない。
 狸寝入りをしている私に気付いたのかどうかはわからないけれど、赤葦くんは宣言通り、バスが停留所に止まる手前で私を起こしてくれた。

「少しだけでも眠れましたか?」
「う、うん」
「なら、良かったです」

 嘘をついてごめんなさい、とは思うものの本当の事は絶対に言えない。
 バスを降り、一層深まった夜の下で赤葦くんを見上げる。

「家、ここから歩いて五分くらいだからもうここで大丈夫。本当にありがとね。あと、迷惑かけちゃってごめん」
「俺が言い出したことなんで。でも今日は早めに寝てくれると俺も安心します」
「うん。それは約束する」
「それじゃあ、また明日、部活で」
「また明日」

 赤葦くんが戻りのバスに乗るのを見送ってから帰ろうとその背中をみつめていると、不意に振り向いた赤葦くんがもう一度私の前に立った。

「赤葦くん?」
「いつでも、送ります」
「え?」
「部活で遅くなった日も、名前さんが眠たくて仕方ない日も」
「いやいや、さすがにもうこんな迷惑はかけられないよ。それに先輩だし、マネージャーだし、もっとちゃんと――」
「そうじゃなくて」

 赤葦くんは私の言葉を遮る。それを言うために改まって私の前に立っているのだとしたら、今日の赤葦くんはやっぱりいつもと違う。私はただ、その真摯な瞳を見つめ返すしか出来ない。

「そうじゃなくて、いつでもどんな理由でも、いや、理由がなくても送ってあげられる関係性になりたいと思ってます。名前さんだから心配なんです」
「……え?」

 瞬きを繰り返したままそれ以上を言えない私に、赤葦くんは「おやすみなさい」とだけ言い、今度こそ反対道路へ渡る横断歩道へと歩んでいった。
 呆然と立ちすくみながら赤葦くんの言葉の意味を考える。忘れたくても忘れられそうにない言葉たちが頭の中で優しく響いた。
 前言撤回。今日の夜もきっと眠れそうにない。

(16.03.05 / 23.03.01)