「名字さん、お手隙の時でいいんですけどこのシーンについて意見お伺いしてもいいですか」
「今いいよ〜」

 2日前に食堂で話したときよりも目の下のくまが濃くなっているなと思いながら私は作業を止めて赤葦くんに向き合う。朝イチで先生からネームを受け取った赤葦くんは昼を過ぎてもまだ話の流れに悩んでいるようで、時折先生と電話で話をしながらああでもない、こうでもないと話していた。優秀な赤葦くんが作業中の私に声をかけるということはよっぽど悩んでいるんだろうと、ここは先輩としてできる限りのことをしようと私は出来るだけ明るいトーンで返事をした。

「なんでも聞いて」
「このバトル、敵の過去が明らかになるところなんですけど、この台詞だと設定に若干の矛盾が生じてしまうんです。先生はどうしてもこの台詞を言わせたいという意向があって、設定に矛盾が生じない流れを模索しているんですけど、3徹目で思考が上手く回らなくて……」
「赤葦くん、3徹だったんだね……おつかれさま……」

 編集者やってますと言えば聞こえはいいかも知れないけれど、漫画の編集なんて実際はブラックみたいなものだ。先生が作業を進めてくれなければ次の過程にはいけないし、その為に必要なものはちゃんと用意しなくちゃいけないし。締め切り間際は深夜だろうが早朝だろうが関係ない。終電に間に合わなくても、始発に乗れなくても最優先事項は原稿だ。
 不摂生はたたるし、肌は荒れるし、腰は痛いし目は乾燥するし。それでも辞めないのはこの仕事が好きだからだ。原稿が完成して一冊の本になって、待っている人たちの元に届く。電車に乗り込んで、私達が作り上げた雑誌を持っている人を目にすればそれだけで全部が報われた気分になれる。それを毎週毎週繰り返すのだ。

「このネームの確認が終われば少しゆっくり出来るんてすけど、ここで妥協はしたくないので作業中なのにすみません」
「全然。気持ち分かるし。でも赤葦くん文芸希望だったんでしょ? 仕事とは言えそうやって妥協しないのは本当に偉いよ」
「……い、いえ俺はそんな。与えられた使命を全うするのは社会人として当たり前のことですから」

 珍しく照れる様子を滲ませ、口籠るように赤葦くんが言う。それでもいつかは文芸のほうに所属異動するのかなと思うとちょっと寂しいな。せっかくのカワイイ後輩だ。出来るだけ長く一緒に働きたいと思うのは先輩として仕方のないことと思いたい。

「後付になっちゃうけど、この設定にさ」

 私は赤葦くんより3年だけ先輩だ。3年の差が漫画の良し悪しにどこまで影響するのか私もまだわからない。私だって日々模索だし、面白い漫画とはっていつも考えているし。それでも私が考えられる全てを赤葦くんに話せば赤葦くんの表情はゆっくりと明るくなっていったような気がした。

「……そうですね、確かにこれなら後付とはいえ矛盾は生じないです」
「先生ともう少し流れを擦り合わせてみる必要はあるけど、良さそうじゃない?」
「ですね、はい。うん、これなら次々週も山場になるしとても良い感じです」
「先輩らしくアドバイスできて安心したよ」

 そう言って私が笑えば赤葦くんは深く頭を下げた。

「いつもありがとうございます。名字さんにはたくさんお世話になって」
「えっそんな。全然! こっちこそ締め切り前たくさん助けてもらってるし、赤葦くんにやる気もらってるし」
「そうなんですか?」
「後輩が頑張ってるのみたらさ、先輩として私も頑張ろうってなるよ」
「編集長から聞いたんですけど……名字さんはファッション雑誌希望だったんですよね」
「入社の時はね」
「今は違うんですか?」
「今は、どこの部署にいても自分が出来る事を全力でやろうと思ってる。やりたくないこともちゃんとやって、次の自分に繋げるんだ」

 そう思えるようになったのは最近だけど。仕事を続けて、知識や経験を増やせばそうやって新しい考え方を持てるようになる。そう思えば、辛い日も大変な日も楽しい日も全部私の為の1日なんだなって全てに意味を見い出せる。
 
「……名字さん」
「うん?」
「次の締め切りが終わったらご飯に行きませんか」
「いいね! 編集長誘ったら奢ってくれないかなあ」
「いえ、そうじゃなくて」

 赤葦くんの目の下のくまは相変わらずだ。眼鏡の奥にある瞳はどこか疲れ切っているけれど、言葉には揺るがない意思があった。

「2人で。名字さんのこともっと知りたいです」

(20.12.5)