「もう仕事嫌だ……辞めたい……」
心の底の、更に奥底から吐き出された言葉に、北くんは「せやったら辞めたらええやん」と言った。浅漬けをつまみに日本酒を口に運ぶ北くんは私の顔を見ることもせず、その視線は壁に立てかけられたメニューへ注がれている。
意外だ、と思った。手を抜くこともせず、飽きることなく最後までちゃんとやりきり、実直に生きているあの北くんがそんな風に言うとは想像もしていなかった。
「北くんでも辞めていいとか言うんだ」
驚きの色を添えてぽつりとこぼすように言えば、か細く紡がれたその声を聞き逃さなかった北くんは、今度こそちゃんと私の方を見て言う。
「なんやねん、それ」
お酒が回ったのか頬は少し紅潮していて、どこか楽しげにも見えた。
「辞めたらあかんとか、もう少し頑張れとかそういうの言われるのかなって」
むしろ北くんにそう言われたら頑張らなくちゃいけないような気がして多分、私は明日からも頑張れた。だから今日北くんを飲みに誘ったわけだし。きっと、心のどこかで北くんに頑張れって言ってもらいたかった。でも、北くんが放った言葉は私が求めるものとは真逆で、深い場所に隠した本音を見透かされているんじゃないかとすら思えた。
「今ちゃんと頑張っとるやつに、それ以上頑張れなんて言えるわけないやんか」
氷が溶けて味の薄くなったサワーを飲み干せば、すぐにカウンターの向こうのバイトのお兄さんが「飲み物どうされます?」と訊ねてくる。梅酒ロックで、と店内の喧騒に負けないように言う。仕事でもこれくらい力強く主張したいのに、なんで私はそれが出来ないんだろう。
「辛そうやし」
「……うん、それは、まあそうなんだけど」
「やから、辞めたいんやったら辞めるべきや」
きっぱりと迷いなく北くんは言う。
北くんは私を養ってくれるわけでもないし、転職活動を手伝ってくれるわけでもないのに、その言葉に無責任さは微塵も感じられず、むしろ強い意志さえ感じられるそれに私の最後の砦が崩れかけようとしていた。
「……辞めたら何になろう」
「なんでもなれるで」
「なんでも?」
「なりたいもんになれる」
「なにそれ。さすがに今からアイドルは目指せないよ、私」
笑いながら目の前に置かれた梅酒ロックを飲む。濃厚な梅の香りとアルコールの強い匂いが鼻腔を通り抜けて、それだけでくらりと酔ってしまいそうだと思った。
「アイドルやってなれるで」
「北くんでも、そういう事言うんだ」
さすがに無理だよ。そう言って北くんを見つめ返す。
その瞳に迷いはなくて、温かく見守ってくれるような視線に、私の何かが完全に崩壊した気がした。
「……じゃあ、アイドルとか目指してみようかな」
「ええやん、応援する」
「ペンライト振り回してくれる?」
「ああ、あれな」
正直北くんがペンライト振り回してるところなんて想像も出来ないけど。お酒が回ってきた事もあって、そんなくだらないことが愉快でたまらなくなる。
「CD100枚買ってくれる?」
「100……中身同じなんやったら1枚で十分やろ?」
「北くんはやっぱりアイドルオタクには向いてないかもしれない」
「なんで同じもん何枚も買うん?」
「……愛?」
「愛」
難しいな、とこぼす北くんの言葉にいよいよ私は声を出して笑った。やっぱり北くんは北くんだった。高校の時から変わらない北くん。告白するには至らなかったけれど、ちょっと良いなって思い続けてた人。
「なんにでもなれるのか、私は」
「せやで」
「そっか」
「おん」
じゃあ北くんの彼女になることもあったりするのかな、なんて馬鹿げたことを考えながら梅酒を飲み干す。喉が熱くて、身体が火照って、北くんの言葉は私の背中を押す。
「辞めるか〜、仕事」
「ええやん」
「世界一周の自分探しの旅とか行こうかな。私はなんにでもなれるわけだし。旅人も悪くないよね」
北くんは優しく私を見つめるだけだ。
「そうしたらマチュピチュあたりから絵ハガキ送るよ」
「楽しみやなあ」
明日、私と北くんが顔を合わせることはないけれど、きっと私がどんな選択をしても北くんは応援してくれるだろう。
あしたの私が何者になれるかは私次第。
(21.01.18)