ぶつかった衝撃で落ちた四角い箱をただ見つめることしか出来なかった。

「あっ、さーせん」

 ケーキが一個だけ入っていた取っ手付きの白い箱は多分、ぶつかった人には見えていなかったのだろう。それほど心のこもっていない謝罪の言葉は適当に放たれて、雑に私に届く。私の顔を見ることもなく去っていったその人は駅に続く大通りへと消えていった。
 金曜日。仕事終わり。デパ地下にギリギリ駆け込んで買えた、一週間頑張った自分へのご褒美。それが今、足元にある箱の中でぐちゃぐちゃになっている。

(……最悪だ)

 虚しさと悲しさと、言いようのない感情が私を襲う。でも大人だからこんなの平気と、おくびにも出さず、淡々とその場にしゃがみこんでシールが剥がれたところから見える箱の中を覗いた。
 案の定、美しいフォルムは消え去っていて、鮮やかな色をしたイチゴのジュレが姿を見せている。いいし。お腹に入れば同じだし。誰に向けるでもない虚勢を張る私の花の金曜日。

「大丈夫ですか?」
「えっ、あ、すみません」

 柔らかさを包んだような声と共にそっと影が落ちた。

「名字?」
「澤村!」
「驚いた。こんな場所でしゃがみこんで、何かあったか?」

 高校の同級生、澤村だった。驚きと共にやってきた安堵感は一瞬、私を女子高生へと引き戻す。
 目に入った制服に仕事中だということがわかって、そう言えば澤村のいる交番はここら辺だったとこの前菅原と会ったときに聞いたことを思い出した。

「ケーキが落ちて」
「ケーキ?」
「人とぶつかってケーキが落ちて、拾わなくちゃってちょっとショックを受けてたところ」
「ぶつかっただけか?」
「え? あ、うん」
「何か取られてたりとか、わざとぶつかって来たとか」
「そういうのはない、と思う。かばんちゃんと閉めてるし」
「じゃあ、大丈……じゃないな。ケーキが」

 道の真ん中に止めていた自転車を道の端に停め直して、澤村は私の目の前にしゃがんだ。同じ目線で目が合って澤村はちょっと困ったように笑ったから、何かを誤魔化すように言葉を紡ぐ。

「……ケーキに被害届出せるなら真っ先に出してた」
「ケーキに被害届は出せないな」
「澤村知ってる? これ一個千円するんだよ」
「嘘だろ!?」
「一週間頑張ったご褒美」

 千円……と澤村が小さくこぼすのが耳に届いた。私だって毎週毎週買うわけじゃない。今回は特に大変な仕事を頑張った後だったから。そんな言い訳を口に出せない私の横を、通行人が数人通り過ぎる。

「……澤村が私に気付かなかったら、惨めで泣いてたかも」
「え」
「……いや、わかんないけど。なんか、なんとなく、澤村に声かけられてよかったなって」

 潰れた箱を手にとって立ち上がる。月明かりと街頭と。まばらな人通りにいる私と澤村。静寂と喧騒が交わるように世の中が動いていくのを感じながら、向けられる瞳に青春時代に置いてきた淡い感情をどうしたって思い出す。

「でも澤村は市民を守るのが仕事だもんね。不審な事があったら声かけるの当たり前か。時間とらせてごめんね」
「いやいや市民を守るのが仕事だから名字に声かけたんだって」
「不審者側じゃなくて?」
「なんでだよ」

 少し困ったように澤村は笑った。背後にある大きくて丸い月は今にも落ちてきそうで、ちょっと手を伸ばせば掌の中に収まるんじゃないかって思えるくらい、その光は私達に寄り添うように届いていた。

「あ……えっと、ありがとう」
「お礼言われるような事じゃないって」
「そっか」
「大丈夫か?」
「うん。食べるよ、ケーキ。多分元気出る。なんたって一週間のご褒美だから」

 夜が優しい。心の奥底を揺さぶるくらい。

「一週間おつかれ」

 その声色と同じくらい閑やかに、澤村の手が私の頭に置かれる。たった一度。一秒あるかないか。なのに今、自分がどんな顔をしているのかわからない。千円もするケーキが落ちても平然としていたのに。

「……澤村」
「ん?」
「やっぱりありがとう」
「市民を守るのが仕事なんだから、礼はいいって」
「でも私は澤村だったから、ケーキがぐちゃぐちゃでも元気になれるんだと思う」

 高校時代に戻ることも、ケーキを落とす前に戻ることも出来ないけれど、私は明日も澤村が見守るこの街で生きていく。緩く穏やかに続く日々に、少し甘い出来事が訪れますようにと願って。

「じゃあ今度の飲み会の時ケーキの味どんなだったか教えてくれ。千円のケーキの味、気になる」
「うん、楽しみにしてて」

 凪ぐような夜の空気が私の頬を撫でた。

(21.01.25 / 企画サイト『connect』提出)