秋も深まり過ごしやすい日々が続く。半袖で街を歩く人も減って、日が落ちてからは長袖でも寒いとさえ感じる。夏があっという間に終わったように、きっとこの秋もまたあっという間に終わってしまうのだろう。
 そんな10月16日。いつも集合場所の提供をしてくれる研磨の誕生日。
 研磨が前に好きと言っていたお店で予約していたアップルパイを受け取って、研磨の家までの道程を進む。
 アップルパイが入った大きな紙袋はずっしりと重いのに、心はうんと軽やかだった。『おたんじょうびおめでとう けんまくん』と、アップルパイの上に乗せられたメッセージプレートを思い返せば自然と大きくなる歩幅。

『ケーキ受け取れた?』
『受け取れました! ばっちりです!』

 黒尾先輩から届いた連絡にすぐ返事をする。私以外はすでに研磨の家に到着しているというメッセージが追って届いて、私は歩く速度を上げた。
 閑静な住宅街を進んで、進んで、進んで。見慣れた一軒家を前に私はこれまでで最も大きな一歩を踏み出す。
 チャイムを鳴らせば黒尾先輩が出迎えてくれて、中からは食欲をそそる香りが漂ってきた。

「お待たせしました! 良い香りしますね」
「おつかれさん。ケーキは俺が預かって切っておくから名前は手洗いとうがい先にしてきな。料理ももう全部出来てっから」
「ありがとうございます。じゃケーキお願いします」

 恭しく箱を渡し、黒尾先輩の言うとおりに洗面所で手洗いとうがいを済ませる。勝手知ったる他人の家とはまさにこのことだなと、研磨の家に来る度思う。
 居間に行き、部屋を見渡せばテーブルの上に所狭しと並べられた料理。アクアパッツァ。ローストビーフ。コブサラダ。生ハムの盛り合わせにおしゃれなフィンガーフードもある。ちょっと高そうなシャンパンが数本あるのもまた、誕生日だからこそって感じだ。
 
「名前遅かったね」
「研磨お誕生日おめでとう!」
「ありがと」

 空いている研磨の隣に座ってお祝いの言葉を言うと、研磨は柔らかい声と共に口の端を上げた。「別に誕生日だからって特になにも変わらないし」って一蹴するかなと思ったけれど、どうやら今日の研磨は機嫌が良いらしい。

「全員揃ったし乾杯するか」

 台所から顔を出した黒尾先輩の一声で私たちはテーブルを囲む。いただきます、ではなく誕生日おめでとうの声を乾杯の合図にして杯を掲げた。グラスがぶつかり合う小気味良い音が響いて、研磨の為の夜が今、始まった。

 そうしてお酒は進み、それと共に料理も減っていった。私もついつい箸が進んでいつもよりも食べ過ぎてしまう。空になったお皿を下げると、そのスペースを埋めるように置かれるアップルパイ。研磨の好きなアップルパイ。

「研磨が好きって言ってたお店のだよ」
「わざわざ?」
「そりゃあ誕生日だし。メッセージプレートも可愛いでしょ?」
「どっちかっていうと恥ずかしい」

 それでも研磨はどことなく嬉しそうに切り分けられたアップルパイを口に運んだ。咀嚼する様子をじっと見つめれば「見過ぎ」と怪訝そうに眉を寄せて注意されてしまう。

「名前も食べなよ」
「うん、食べる」

 そして私も研磨と同じようにアップルパイを口に運ぶのだった。


▽  ▲  ▽


「私ちょっとコンビニ行ってきます」

 近くにいた黒尾先輩にそう声をかけたのは夜22時を少しだけ過ぎた頃だった。船を漕ぐ手前の酔っ払いが部屋に転がっているのを横目に私は居間を出る。

「時間遅ぇし一緒に行くわ」

 私の後を追うように玄関にやってきた黒尾先輩はそう言ってスニーカーに足を入れた。大丈夫ですと言う隙さえ与えてもらえず、黒尾先輩が玄関のドアノブに手をかけてドアを開けようとした寸前、また違う声が届く。

「クロと名前、外行くの?」
「うん。私がコンビニ行くって言ったら黒尾先輩が時間も遅いし一緒に来てくれるって」
「ふーん……」

 興味があるのかないのか、単に聞いただけなのか。耳にかかっていたサイドの髪の毛が研磨の頬をくすぐるように落ちるのを見つめる。パーカーのポケットに手を突っ込んだまま、視線を少しだけ横にそらして研磨は続けた。

「コンビニ行くなら、俺が一緒に行く」
「え?」
「俺もちょうど行きたかったし」
「必要なものあるなら代わりに買ってこようか?」
「酔いつぶれた人の面倒見るの嫌だし、クロが皆の様子見ててよ」
「俺はどっちでもいいけど」
「じゃあよろしく」

 言うと同時に靴に足を入れた研磨は、黒尾先輩とスイッチするように玄関のドアノブに手をかける。ドアの向こうに広がる夜の世界。

 そして私はこれまでの季節もそうしてきたように、肌寒い秋の夜道を研磨と歩くこととなった。一層静けさが増した住宅街は月明かりと街灯だけが道標のよう。

「家にいれば良かったのに。こんな時間にコンビニとか研磨面倒くさいんじゃない?」
「酔っ払いに絡まれるほうが面倒くさい」
「え〜言うほど虎もリエーフも酔ってなくない?」

 だけど心のどこかで私は、この道程がどこまでも続けば良いと思っていた。果のない海を照らす月の路のように、たとえ朧でもゆるく、長く。そして優しく続いてほしかった。

「研磨はコンビニで何買うの?」
「ゲーム用のカード」
「さっき誰からからプレゼントされてなかった?」
「……別のやつ」
「あ! 買い出しじゃないけど、せっかく一緒にコンビニ行くんだしアイスも買わない? 誕生日だから一番高いやつ!」
「誕生日を口実に高いアイス食べたいの名前でしょ」

 私の提案を否定することも肯定することもなかったけれど、研磨の口角は緩く上がった。それを見て、またこの季節も研磨と一緒にアイスを食べながらあの家に帰るのだろうと確信する。
 静かな住宅街に小さく響く足音が2人分。背中を押すような秋の風が私と研磨の毛先を遊ばせる。

「研磨」
「なに」
「誕生日おめでとう」
「それさっきも聞いた」

 だけどそう言う研磨の声色はとても優しくて、それが嬉しくて、私はこの1年が研磨にとって素敵な1年になりますようにと秋の空に願っていた。

(21.10.14)