休日の駅ビルは人で溢れていて、待ち合わせ場所がなかったら永遠に待ち人は来ないとすら思えた。

「すみません」
「はい?」

 対面から人の好さそうな青年が声をかけてくる。控えめな声量と物腰の柔らかさに道を尋ねられるのかなと想像した。
 学際の買い出しをするために駅前で黒尾と待ち合わせしていたけれど、時間には余裕があるから少しくらいなら構わない。その声に足を止めると青年はどこか安心した様子だった。

「突然声をかけてごめんなさい。良かったら連絡先交換してくれませんか?」
「えっ」
「さっき目が合った時に可愛い人だなと思って。その、もしよかったら友達からで良いので知り合いたいな、と」

 これは、あれか。所謂ナンパか。
 ただただ驚く私の横を通行人は平然と過ぎ去る。こんなにたくさんの人がいるのに、誰一人私達に視線を向けないのが都会らしさを物語っていた。
 確かに交わされた一瞬の視線を思い出す。あの一瞬で声をかけようと決意するくらいなんだから、この人、爽やかそうに見えて意外とナンパ慣れしているのかもしれない。
 突然やってきたセールスマンと話している時のように目の前に見えない壁を一枚挟んで、私は断りを入れた。

「人と待ち合わせしてるので、ちょっと時間なくて」
「今ゆっくり話せなくても後日どこかで会えたらって感じなんですけど」
「ごめんなさい」
「嫌だったらすぐ消してもらって良いんでダメですか? しつこいかもしれないんですけど本当に好みだったので……」

 頻繁に声をかけられるわけではないけれど、意外とこういう「しなさそう」な人のほうが食い下がってくるのを忘れていた。次から次へと声をかけるようなタイプのほうが断ったらすぐに次のターゲットへ向かってくれる分、楽なのに。なまじ相手が丁寧な分、こちらも強く否定しにくい。

「もしかして彼氏いますか?」

 言葉に詰まった。
 彼氏がいると言えば嘘になる。だけどここは嘘をつく以外の選択肢が私にはないのも事実だ。ふいに頭の中に黒尾が浮かんだのは、きっと待ち合わせ相手だから。 

「い……いま、す」
「なんなら彼氏の愚痴とか聞きますよ」

 いや、存在しない相手の愚痴なんかない。これ以上どうやって断ったら良いんだろうと頭を悩ませる私の前に、救世主は突如として現れた。

「どうも。彼氏です」
「黒尾……!」

 私の肩に手が回されてほんの少し身体が近づく。目の前の青年は困ったような顔をしていて、私は軽く頭を下げた。彼氏(偽)が来たのでここはどうかお引き取り下さいと願いを込めながら。

「そういうわけなんですみませんね」

 届く声はとても落ち着いていて安心感をもたらしてくれる。必要最低限の言葉と態度でこの場を丸く収めることが出来るのが黒尾らしいと思った。青年はそんな黒尾の様子を受けてか、さすがにこれ以上引き下がるわけにもいかないと「こちらこそすみません」と言い残し、私たちの前から去っていった。
 姿が人混みに消えたのを見届けて、肩に回っていた黒尾の手も離れる。離れた場所を撫でる空気は心なしか少しだけ冷たい。

「待ち合わせ場所に来ないと思ったらナンパされてんだからビビった」
「笑いそうになったの間違いでしょ、どうせ」
「でも助かっただろ?」
「それに関してはすごく助かった」

 目的地へ行きながら私と歩調を合わせて歩いてくれる黒尾の横顔を見上げる。
 学祭の委員に選ばれなかったらこんな風に私服で黒尾と隣り合うことはなかった。ナンパされることも、髪型に悩むことも。

「いやぁ、それにしても名字に彼氏がいるなんて知らなかったわ」
「いないの知ってるくせに。あーあ、彼氏いたらなぁ」
「なに、名字彼氏ほしーの?」
「欲しいか欲しくないかなら欲しいに決まってる。私、あの人にいますって言ったときすっごく心が痛かったんだよ。見ず知らずの人とは言え嘘ついてる〜って」
「どんだけ嘘つくの向いてないんだよ」

 そう言って黒尾の屈託のない笑みを見ることもまたなかったのだろう。

「……心が清いって言って」
「ハイハイ。まあ、でも……」

 余韻を残すように間を開け黒尾は私を見た。壁一つない私たちの視線は綺麗にぶつかる。余裕のある表情で口角を少しだけ上げたかと思うと黒尾は言った。

「必要ならいつでも彼氏になるけど?」

 言葉は流れ星みたいにキラキラ光って私の頭上に落ちてきた。
 いつもならもっと軽快に笑い飛ばせるのに出来ないのは多分、あの時抱き寄せてくれた黒尾の手が優しかったせい。
 別に黒尾の事嫌いじゃないし。身長高いし。それなりに面白いし。話し合うし。歩く速度も合わせてくれるし。誰に言うでもない理由をつらつらと思い浮かべてみる。

「……悪くはない、気がする」

 小さく呟いた声が届いたのかわからない。それでも隣を歩く黒尾は満足そうな笑みを浮かべている。
 この人混みを抜けてもっと声が届くようになったらもう一度、今度は黒尾の顔を見て言ってみようかなと密かに決意を固めるのだった。

(21.11.15)