黒板に乗った白い文字を消す。パラパラと粉が落ちてくるから息を止めると、隣に並んだ及川が笑った。水中にいるみたいって肩を揺らすその横顔は整っていて、私は何かを誤魔化すように背伸びをした。

「上は俺が消すから」
「背伸びすれば私だって届くし」
「急に張り合わないでよ」

 及川は背後から覆いかぶさるように位置取って、私では手の届かない場所へと腕を伸ばした。落ちる影。訪れた日影は夏の暑さから逃げられる小さな避暑地みたいだと思った。
 だけど私の心拍数は次第に上昇して、教室内の意味を成さない空調にじんわりと教室内が暑さを増したのを感じた。夏の湿度に交じって届いた香りは多分及川のもので、それが香水であるのかそれとも及川自身の香りであるのかはわからなかったけれど、良い匂いだな、とそんなことを思った。

「あ、及川ー、誕生日おめでと〜」

 暑いという声に混ざって、うちわ代わりになっている教科書の乾いた音が教室を満たす。それと共に聞こえた、誰かのそんな言葉。

「え、及川今日誕生日なの?」

 私は驚いて及川を見上げた。

「そうそう」

 知らなかった。梅雨が明けたばかりの、暑い、暑い夏の日。いつも爽やかに笑って物事を上手に遂行する及川がこんな暑い日に生まれたなんてちょっと不思議だ。暑苦しい空気がさらりと私のえりあしを撫でる。

「じゃあ海連れてって」

 遠くで蝉の声が聞こえた気がした。締め切った窓の向こう側。陽射しがグラウンドの砂を容赦無く照り付けている。それすらも遠い世界の事のよう。

「え、俺が?」
「うん」
「普通逆じゃない?」

 じっと瞳を見つめる。双眸が揺れて、先ほどの良い香りがまた私の鼻孔に触れた。

「いいよ。今日は月曜日で部活もないし」




 平日の夕方と言えど、海開きしたばかりの海水浴場にはカラフルなビーチパラソルが並んでいる。夕日に照らされた入道雲の鮮やかな色。眩しさに少しだけ目を細めながらローファーと靴下を脱ぎ棄てて浅瀬に足を踏み入れる。温い海水。温い空気。濡れた砂を踏む感覚が足の裏から伝わってきて、同時に夏の始まりを感じた。

「昨日ニュースで海開きしたって言ってて、行きたいなって思ったんだよね。だから、一緒に着いてきてくれてありがとう」

 お誕生日おめでとうと、潮の香りを浴びながら波打ち際に文字を書いてみても文字は簡単に消えてしまう。消えずに残ってくれたなら、もっと強く記憶に残る事が出来るのだろうか。

「消えちゃったけれど誕生日おめでと」
「言ってもらえないかと思った」

 夕日が及川の髪の毛を照らす。制服を汚したらお母さんに怒られてしまうと思ったけれど、水しぶきが頬に飛んで、塩辛い味にそんなことはどうでもいいやと思ってしまった。

「多分、最初で最後の海になると思う」

 ほんの少し寂しそうに及川は言った。

「じゃあ、及川の夏の思い出のひとつに私はなれるわけだ」
「なにそれ」
「高校三年生の夏の、最初で最後の海ってなーんか青春って感じじゃん?」

 得意げに言った私の言葉に、及川は笑みを見せる。肩を揺らすその横顔はやっぱり整っていて、私はまた何かを誤魔化すように海を蹴った。水しぶきが空を舞う。制服の裾が濡れて、及川の頬に丸い水玉を残す。

「しょっぱ!」
「ごめん勢いよく蹴りすぎた」
「制服濡れたし」
「私も濡れてるからおそろいおそろい」

 夕日が海に落ちる。
 夜がやってきて、明日になっても、私はこの人の青春の一部になれるだろうか。なれたら良い。時折思い出してもらえるそんな存在になれたら私は結構、幸せだ。

「ほら、暗くならないうちに帰るよ。タオルあるから足拭いて」
「はーい」

 手を引かれる。重なった体温は夏よりも温くて、海よりも温かい。私は潮の香りを嗅ぐたびに今日の事を思い出すだろう。砂を踏みしめる感覚を。色付いた入道雲を。塩辛い海の味を。
 及川に気が付かれないように好きと書いた文字が海に消される。けれど、それで良い。消えるくらいが丁度良いのだ。
 きっと。
 絶対に。

(22.07.20)