「遠距離恋愛嫌にならない?」

 そう聞かれるのは何度目だろうか。
 誰かと恋バナをする時に、彼氏がアルゼンチンにいますと言ったら返ってくる言葉は大体決まってる。「アルゼンチン? なんで?」とか「え、彼氏外国人?」とか。

 ――ううん。高校の時から付き合ってる日本人の彼氏。やりたいことの為にアルゼンチンに行った。

 そんな風に私と徹のこれまでを掻い摘んで話しても、結局聞かれるのだ。遠距離恋愛嫌になんない? って。大学を卒業して社会人になるまで一体何回その質問を浴びただろう。もう数えきれないほど。だからその問いの答えを私は迷うことなく紡ぎだせる。

「嫌になるよ。嫌になるけど、どうしようもないくらい好きだから距離なんかに負けてやんない」

 そう言うと目の前に座る徹は目を見張った。自分から聞いてきたくせに驚かないでよ。

「なに、徹から聞いたのに驚くの?」
「いやだって相変わらず逞しいっていうか、かっこいいって言うか……そんな風に返されると思ってなかった」

 徹が日本へ帰ってくるのは久しぶりなのに、仕事終わりにした待ち合わせは、なんだかこれまでもそうして来たかのような感覚を私に与えた。
 大学時代から時々友達と夜ご飯を食べにくる、遅くまで営業している駅の近くのカフェ。もし徹が日本に住んでいたら頻繁にここで待ち合わせることもあったのかもしれないなとぼんやり思う。徹と会うのはいつぶりだっけ。私が大学四年生の時にアルゼンチンに行ったとき以来だから、一年ぶりかな。

「辛い! もう嫌だ! って愚痴られると思った?」
「言われた方が目一杯甘やかす口実になるなとは思った」
「あはは。なにそれ」
「俺のせいで嫌な思いもさせちゃってるだろうから、会えた時は際限なく甘やかしたいじゃん?」
「俺のせいじゃないよ。私たちが選んだことだよ。だから、遠距離恋愛なのは徹の都合だけじゃなくて私たちの都合」

 友達を羨ましく思うことは何回もあった。すぐに駆け付けられないもどかしさも十分知っている。どれだけ側にいてほしいと願っても叶えられない現実。正直、あんなに豪語したのに心が折れない瞬間がなかったわけじゃない。
 でも無理だった。徹がいない未来は思い描けなかった。違う誰かといる自分。私じゃない人といる徹。連絡も取り合わなくなって、人づてに互いの事を聞くようになって、いつの間にか別々の道を歩んでる。そんな未来はどうやったって、想像できなかったのだ。

「だからまあ、これからもドンとこいだよ」

 そう言って笑うと、徹が「名前」と私の名前をこぼすように呼んだ。

「今回日本に戻ってきたら伝えようとは思ってたんだけど」
「うん」
「名前の言葉聞いてたら絶対に今言わないといけない気がして」

 声には熱が籠っているのに瞳はとても凪いでいた。高校生の頃と比べて大人びた顔つき。体格も良くなって、より一層所作にも余裕が生まれるようになった。私達は時々しか同じ時間を重ねることは出来なくて、久しぶりに会ってはどことなく大人になっている部分を感じる歩み方だったけれど、それでもそうやって大人になれた事を私はひとつも後悔していない。

「ま、待って!」
「え」
「別れようって言わないよね? 言わないでね? 聞かないよ? 私はそんな気ないよ?」

 だけどもし徹がそうやって時間を重ねたことを負い目と思っているのなら。不意にそんな考えが頭を過り焦りが生じる。今、徹が大事な何かを言おうとしているのはわかった。別れを告げられたあの日の徹によく似ているから。
 私の不安をよそに、徹はおもむろに首を横に振った。そして再びその瞳に私を映して言う。

「言わないよ。むしろ逆」
「……逆?」
「名前ともっと一緒に居たいって。遠距離恋愛をやめる提案をしたいって話」

 遠距離恋愛をやめるイコール別れるじゃないのなら徹が日本に帰国するということだろうか。それとも別の何かがあるんだろうか。頭を悩ませる私に徹は続ける。

「俺さ、帰化しようと思ってるんだよね。日本には戻らない。でも名前とも別れたくない。だから俺と結婚して一緒にアルゼンチンに来てほしい」
「け、結婚!?」
「うん」

 事も無げに。平然と。
 追いつけない展開に私だけが動揺している。

「もちろん名前の仕事のこともあるし、今すぐは無理でも俺はそういうつもりだってわかっててほしい」

 私はもうアルゼンチンの場所を思い描ける。飛行機でどれくらいかかるのかも、どれほどの治安なのかも。そしてそこは、私が絶対に行けない場所じゃないってことを私はよく知っている。だから徹の隣にいることは、私にとって難しいことなんかじゃない。

「……近くにいたら、会いたいときに会えるし泣いた時には慰めてもらえるし寒い日に抱きしめあったりクリスマスとか誕生日とか祝えるんだね」
「出来なかったこと、全部してあげる」

 出来なかった事、全部。なんて甘美で誘惑的な言葉なんだろう。見つめた先にいる徹の瞳に宿る「愛おしい」という色が私にも伝わってきて、私は絶対この人を一生好きなままなんだろうなと思った。
 だったらもう答えはひとつしかない。
 
「徹は何がしたい?」
「俺? 俺は、練習から帰ったらおかえりって出迎えてもらって、名前の作った美味しい手料理食べたい」

 帰りの飛行機の事を考えなくても良い時間。時差を計算しなくても良い電話。そういうの全部投げ捨てたら、今度はまた違う難題が私達を襲うだろう。でもいい。きっとなんとかなる。なんとかしてみせる。

「アルゼンチン行きたい。徹と結婚して、一緒に暮らしたい」
「え、ほ、ホントに? いいの? アルゼンチンだよ?」
「女に二言はない。私が徹のこと支える。だから徹は思いっきりバレーしなよ。好きなだけ。おじいちゃんになってもさ」

 そういう徹を好きになったし、そういう徹だから好きになれた。
 徹はテーブルの上にある私の手を握る。骨ばった長い指。形の整った爪。私よりも温かい体温。包まれた先からどんどん幸せが広がる。

「はぁぁぁぁ……好き。絶対幸せにする」

 私も。私も好き。大好き。
 長かった遠距離恋愛が終わろうとしている。
 そして始めよう。いつまでもどこまでも夢を追い続けるこの人のそばで、飽きるくらい一緒にいる日々を想って。さあ、今度は二人の生活を。