職場の先輩赤葦に励まされる


 出版社への就職は長年の夢だった。新人研修を終え、人気週刊誌の週刊少年ヴァーイに配属された時にはまさか自分があの人気少年誌に、と驚いたけれど、いつか私も世界中で愛される漫画の編集者になるんだってやる気にも満ちた。
 想像を超えて大変な事はたくさんある。もちろん仕事を辞めたいなんて微塵も思わない。
 
「……はあ」

 ただ、現実と理想が伴わない事もまた事実だった。
 漫画家さんとの電話を終えて受話器を置くと無意識に溜息が出てくる。周りに積み上がった本や書類の山。パソコンの周りに貼られたたくさんの付箋紙。私はもっと、仕事が出来る人間だと思っていたのに。
 そっと席を外して給湯室に向かう。定時に帰れるなんて微塵も思わないけれど最後に夕日を浴びながら帰路を歩いたのはいつだっただろうか、と考えてしまう日々。
 せめて美味しい飲み物でも飲んでリフレッシュしようかと思った時、背後から声をかけられた。

「名字さん、大丈夫?」
「赤葦さん」

 振り向いた先にいたのは、隣の席の、私の先輩。時々私より何倍も疲れた顔をしてるのに愚痴を吐くのを聞いたことがなくて、ちゃんと仕事が出来る、私の目標。

「浮かない顔してたから気になって来たんだけど、何かあった?」

 心配そうに私を見つめてくれる赤葦さん。いつも優しくて、なにかある度こんな風に私の事を気にかけてくれるからつい甘えてしまいそうになるけれど、迷惑はかけられないと誤魔化すように笑った。

「すいません、仕事があんまりうまくいってなくて」
「何か俺に出来る事ある?」
「だ、大丈夫です! いつも迷惑かけてばっかりなのでこれ以上はさすがに。それに赤葦さんも今忙しいですよね。出来るだけ邪魔にならないようにするので、私の事は気にしないでください!」

 そう言うと、赤葦さんはどこか困ったように眉尻を下げた。でも顔は普段通り穏やかで優しい色が滲んでいる。

「俺のことは気にしないでいいから。さっきの電話、少し聞こえてたけどなんとなく大変そうなのは伝わってきてたし」

 赤葦さんの声が私の心を暴く。もっと上手に気持ちを切り替えるつもりだったのに、この人の前だと子供みたいになるときがある。強く結んでいたはずの紐が解ける様に、気がつけば私は口を開いていた。

「……私の不手際っていうか、容量の悪さっていうか、配属された時はやる気に溢れてたのに……あ、それは今もちゃんとあるんですけど、それだけじゃどうしようもないって事を突きつけられる事が多くって。もっと出来ると思ってたのに全然出来ない自分に嫌気がさしちゃうなあって。……ってこんなの完全に愚痴ですよね。ごめんなさい」
「俺にも新人の頃はあったし、気持ちはわかるよ。先輩として頼ってもらえるのは嬉しいから辛いならあんまり溜め込まないで。愚痴だっていつでも聞くし。まあ、俺で良ければだけど」

 ぽん、と肩に大きな手が置かれる。すぐに離れていったはずなのに触れられた場所が心地良く温度を上げた。弱っていたところに優しくされたからなのか、柔らかい何かで心臓を包まれたような気分だ。
 俺で良ければ、と赤葦さんは言ったけれど赤葦さん以上の適任はいないだろう。むしろ赤葦さんだったから積もった感情を言葉にしてしまったと言っても過言ではない。

「そう言ってもらえるだけで気持ちが楽になります」
「そっか」

 目の下に隈のある、穏やかな笑み。赤葦さんが私の先輩で良かった。

「なんだかまたやる気が出てきました。赤葦さんのおかげです」
「そう言ってもらえたら俺の方こそやる気出る」
「あはは、相乗効果ですね。今はまだ迷惑かけてばっかりだと思うんですけど、いつか赤葦さんに頼ってもらえるくらい一人前になるように頑張ります」

 ヤカンの沸騰する音が給湯室に響く。まだまだ仕事は山積みだ。問題が解決したわけじゃないけれど心は軽い。

「名字さん」
「なんですか?」
「お互い山場が終わったらどこか美味しいランチでもいこうか。もちろん俺のおごりで」
「ありがとうございます。ますますやる気が出ました」

 紙コップにお湯を注いで、ストックされてあるスティックタイプのカフェオレを入れると、ほんのりと漂う甘くてまろかな香りが私と赤葦さんの周りで優しく揺れた。

(23.05.15)