社会人黒尾でキュンとする話


「焼酎おかありするぅ!」
「ちょ、飲みすぎ飲みすぎ」

 声高々に店員を呼ぼうとする名前を止める。アルコールの影響か、掴んだ手首は心なしか熱い。
 仕事でもプライベートでも嫌な事があったという名前のやけ酒に付き合って早3時間。飲み過ぎてちゃんと日本語になってねーし、目も据わってるし、さすがにこれ以上は飲ませるわけにはいかない。
 
「いいじゃん、今日くらいは」
「良いって量を超えてんのよ」
「けち……」
「はいはい、ケチで良いから」

 そのまま手に持ったお猪口を強引に奪うと子供のように口を尖らせた名前は恨めしそうに俺を見た。もういい歳だっていうのに、そういう仕草は高校生の頃と変わらない。
 だけど仕事帰りのスーツ姿は重ねてきた時間をきちんと物語っていて、その来し方をなぞるかのように、喧騒で満たされる居酒屋の中、目の前に座って顔を赤くする名前をじっと見つめた。

「あーあ。黒尾と同じ会社だったら良かったのに……」
「同じ会社でも同じ部署になるとは限んないだろ」
「そうだけど。同じ会社ってだけでなんか嬉しいじゃん。嫌な事あっても頑張れそう」

 まろやかに笑う顔には気だるそうに潤んだ瞳。熱を帯びるその色に心臓が騒いだ事は悟られたくなかった。だからグラスに僅かばかり残ったアルコールを流し込む。友達。親友。良き理解者。相談相手。それ以上になれるタイミングを俺はいつも探している気がする。

「名前がこれ以上酔っ払う前に帰んぞ」
「え、明日も休みなのにもう帰るの?」
「帰るの」

 伝票を持って立ち上がると渋々と言った様子で名前も立ち上がった。のろのろとした動作で上着を羽織ろうとする隙に先に会計を済ませておく。
 千鳥足の名前を支えながら居酒屋を出ると、すっかり暗くなった頭上に広がる満天の星。

「お金、出す」

 小銭をぶちまける未来しか見えないと、おもむろに鞄の中から財布を取り出そうとする動作を止める。少し肌寒い春先の夜風が名前の髪の毛を揺らして、名前は少しくすぐったそうにしていた。

「いい、いい。今日は俺のおごり。その代わり次は名前のおごりな」

 その言葉に納得した名前は頷いて「ありがと」と小さく呟く。
 終電まではあと2時間。電車に乗って帰るよりもタクシーの方がいいか、と配車アプリを起動すると服の裾を掴んだ名前が言う。

「もうちょっと一緒にいようよ。まだ帰りたくない」
「……さすがにその台詞はどうかと思います、ボク」
「でも黒尾以外には言わないし」
「そーかい」
「あ、でも……仲良い女の子とか可愛い女の子とかにも言うかも……。じゃあさ、酔い覚ましにちょっとだけ散歩でもしようよ」

 名案だとばかりに輝く名前の瞳。春風に乱れた髪の毛を整えてやろうと頭に手を伸ばす。嫌がることもせず受け入れる名前にこのままキスでもしてみたらどんな反応をするのか、なんてことを考えてしまった。そんな事を考えてしまう隙間があるくらいに名前は無防備だった。

「仕方ねぇな。付き合ってやるか」
「なんか笑ってない?」
「気のせい気のせい」
「そうかなぁ。なんかニヤニヤしてる気がするんだけど……」
「そういう事言うとこのまま置いてくぞー」
「え、わ、ごめんって!」

 そう言って歩き出すと雛鳥のように名前が慌ててついてくる。
 そうして先程よりもまともになった足取りで肩を並べた名前は、誰もいない通りに進んだ先でいたずらな表情を携えながら言った。

「くろー、おんぶしてよ」
「おんぶって……おねぇさん、何歳児ですか?」
「んー26歳児?」
「ずいぶん手のかかる26歳児だこと」

 呆れたように言ってみても名前は笑うだけだった。誰もいない道の真ん中で屈めば背中に加わる重さ。衣服を隔てていても触れ合った場所は温かくて柔らかくて、境い目をなくすかのように朧な体温を感じる。

「……おやおや名前サン、太りました?」
「うっわ! ひど! これはお酒の重さですぅ」
「ちょ、暴れんな。落としちゃうでしょうが」
「黒尾が太ったとか言うから」
「悪い悪い。冗談だって」
「仕方ないからそういうことにしといてあげる」

 静寂の夜に、まるで鈴の音のように名前の声が耳元で響いた。

「私たち、出会って10年経ったんだね」
「そうだな」
「長いね」
「長いな」

 背中にいる名前を強く意識した。どこまでも続くこの一本道のように名前との関係もいつまでも続いてほしい。だけど現実はそんな簡単じゃないことを俺は知っている。

「これからもよろしくね」

 10年。10年もの時間の中で重ねた先にどうしようもならない想いがあるのだから、それはもうこれから先もどうする事も出来ないのだろう。その事実は満点の星の下で、何故か今、ようやく腑に落ちた。
 だったら。
 それならばせめて。

「あのさ、名前」

 ここからは少し進ませていただきます、と心の中で宣言しながらその名前を慈しむように言葉にした。

(23.03.06)