川西とクラスメイトの両片思い


 失敗した。やってしまった。こんな結果になるなら勢いに任せないで美容院へ行くんだった。
 呆然としながら洗面所の鏡の前で短くなった前髪に触れる。可愛くなりたくて前髪を切ろうとしたのにこんなの全然可愛くない。泣きたい気持ちが募ってどうしようもない後悔とぐちゃぐちゃに混ざり合う。

「や、休みたい……」

 だけどそんな思いとは裏腹に時計の針は進み、私に差し迫る家を出る時間。朝ご飯を食べる気にはまるでなれなくて、どうにか学校を休めないかと考える。けれど誰もが納得する名案が浮かぶわけもなく、結局いつも通りお母さんに送り出される事となってしまった。
 重い足取りで向かう学校。教室に入る前に女子トイレで気持ちを整えようと思った矢先、階段の踊り場で背後から声が届く。

「名前?」

 足が止まる。振り向かなくても声でわかる。私の、好きな人。
 慌てて前髪を隠してから後ろを向くと、そこにはやはり想像していた相手――川西太一が立っていた。
 いつもだったら嬉しい気持ちで満たされるけれど、今ばかりは最悪と言う他ない。何が悲しくて好きな人にこんな姿を見られなくちゃいけないんだろう。自業自得と言えばそれまでなんだけど。

「お、おはよ、太一。朝練終わり?」
「おー。ちょうどさっき終わって……ってなんかいつもと様子が変だけどどうした?」
「そ、そう?」

 私の行動を不審に思ったのか、太一は距離を詰めて私の前に立った。目の前にある太一の胸板。これ以上顔を上げる勇気はない。

「来ないで……あと私を見ないで……!」
「え、なに。まじでどうした?」
「髪! 切った! 失敗!」
「髪?」

 今どれだけ抗っていても教室へ行けばどうしようもないことくらいちゃんとわかっているのに、無駄な足掻きをしてしまう。

「笑われるから誰にも見られたくなくて……。だから太一もしばらく私に近付かないで」
「いやさすがに無理だって。それに笑わないし」
「……本当に?」
「本当に」

 優しい声色。そっと太一を見上げ、しばし迷ったけれど意を決して前髪を隠していた手を外す。何か、何でもいいから言って。笑われるよりも沈黙のほうが嫌かもしれないと気づいた時、太一が口を開く。

「いいじゃん、似合ってる。これから夏だし、ちょうど良いと思うけど」
「ほ、本当に? 本心で言ってる?」
「あたりまえ」

 あたりまえ。そっか、そっか。良かった。お世辞だったとしても太一に言ってもらえただけで救われる。……と思ったのも束の間、太一は顔をそらして小さく肩を揺らした。
 わ、笑ってる! 沈黙が嫌って思ったけどやっぱり笑われるのも嫌だ……!

「ねえ! 笑ってるじゃん! 嘘つき!」
「いや、違う……これは……フッ……」
「いいよもういっそ思いっきり笑ってくれたほうが気が楽だよ!」
「違うんだって。そう言えば後輩にも似たような前髪してる奴いるわって思い出しただけだから」
「それ全然フォローになってないんですけど」

 うなだれる私に太一は言う。
 
「悪い。でも名前のほうが断然可愛いから」
「今更何言っても遅いよ」

 わかってる。どうせその可愛いは「ぬいぐるみが可愛い」とか「動物が可愛い」とか、そういう類のものだって。私が言われたいのはそういう可愛いじゃないのに。でも、これはこれで嬉しいって思っちゃう自分がいるのも悔しい。
 不意に太一の指先が伸びてきて、短くなった前髪にそっと触れる。気の抜けたような笑み。少しだけ触れ合った皮膚。その一瞬だけ、私は後悔も羞恥心も全てを忘れた。

「本当だって。間抜けで可愛い」

 ああ、もう! そんな風に言われたらもう何も言えないじゃん。心臓がドキドキして、体はふわふわして、好きって感情がまた増えちゃう。

「……それ、他の子には言わないでね」
「え?」
「今は間抜けでも良いから、私だけにして。後輩の子にも言っちゃダメだからね!」

 ワガママだってわかってるけど。言うも言わないも太一の自由だってわかってるけど。

「じゃ、じゃあ先に教室行くから」

 すっきりとした視界で太一を見上げてから逃げるように踵を返す。スカートの裾が揺れて太ももがくすぐったい。

「名前にしか思わないんだけど」

 呟くように紡がれた太一の声が、小さく背中に届いた。

(23.05.31)