短編 思い出ごと喰らってくれ


※長編のイフ、短編思い出ごと喰べたい同軸のオシュトル視点です。
※前半夢主は一市民。後半夢主は帝妹として聖廟に迎えられている設定です。
※夢主は基地トリップ腐女子ですが短編にかかわる設定ではありません。
※暗め。後悔に苛(さいな)まれる話。





 密命の途中、馬車で街道を進むと道沿いに群生する花畑を見つけた。車の中で床に臥せていたナナコは起きていたのか、綺麗と囁く声を己は御者台で耳にした。
 数日前、妻に迎えたばかりのナナコは景色を眺めるのを好み、旅路を喜びこそすれ生来の病弱さからか臥せることが多かった。
 気の張り詰める道中で幾ばくかの慰めになればと車を止める。遠慮する妻を招くために先んじて外に出た己は花を潰さないよう適当な所に寝転がった。晴天で牧歌的な光景は振りでなくとも眠りを誘う。
 腕を枕に寝入る振りで妻の出方を伺えば、予想に違えずおずおず馬車から出て近づいていいかと尋ねた。断りなどいらぬのにまだ遠慮するかと気づかれぬよう嘆息し、快活に応じれば妻はほっと息をつきそろりそろりと花を踏まないよう隙間をぬい己に近寄った。
 礼儀正しく膝を揃え座る姿に思う。優しい娘だ。花にも遠慮したらしい。何もかもに遠慮してその癖胸の内に澱みを抱え耐えるばかりなのが見ていて歯痒かった。
 肩の荷を下ろせばいいのにと視線をやれば、こちらの視線に気づかぬ妻は興味深げに辺りの景色に目をやっていた。安らいでいるなら良かったと胸を撫で下ろすも、振り回される現状に不満が生じているのも確かではある。
(奥よ、こちらを見ておくれ。夫が傍にいるというに物思いに浸るのは酷ではないか)
 風来坊を気どる身で、まして誰が見ているかもわからない街道でオシュトルの顔を覗かせるのは不味い。浮かれがちな頭でもそこは理解できた。
 ゆえに、無防備な膝に頭を転がし口に出せない想いを訴える、俺を見てくれと。
 正しく意図は通じずナナコはぎょっと目を見張った。伝わらぬのは残念だがこちらを凝視する様に多少溜飲が下がった。気を良くした己はついでに柔らかな感触を堪能しようと目を閉じた。彼の手に触れられるとどうにも安らぎ力が抜ける。言えば調子に乗り殊更触れようとするのが予見出来たため知らせてはいない。今後も良き関係を結ぶためにも妻には知らぬ儘までいてほしい。
 恍惚と蕩けるこちらの心中に気づかず妻は困惑するばかり。
 役得だ、職権乱用では断じてない。上司と部下という関係を抜きにしても公の場でない限り、夫婦の振る舞いに徹しても何ら問題はないと己に言い聞かせた。妻の狼狽えるさまが可愛いなどとは断じて口にはしない。
 ナナコはウコンの誘いを断らず内縁の関係を了承したが抵抗を感じているのを己は知っている。動揺を誘う言葉は慎むべきだ。己はいずれ籍を入れる算段を付けており、関係者と帳尻を合わせる最中である。日影に隠れるのを妻は容認したが関係を秘匿したままで居させる気は元よりない。
 足下を整えれば名実共に籍を入れられる。悪戯に騒いで妻の心労を増やす気はないので企みの件は時がくれば明かす心積もりだ。ナナコは己の意を汲み頷いてくれると信じている。
 やがて夫になるものが妻君の膝を堪能して何が悪いと己は開き直り、戸惑う妻から目をそらし高いびきを決め込んだ。

 しばらく、あ〜だのえっとだの、狼狽える妻の反応にを楽しんでいると、ややあってナナコは忍び笑いを漏らした。堪らずといった風情に気になり薄目を開けて反応を伺うと己の髪に手を伸ばし数度撫でた。実に嬉しそうだ。
(男の髪を触って何が楽しいのやら……逆は認めるが)
 異性で特別な関係だからこそだろうと結論付け、髪をなでる柔らかな感触と微笑みに感じ入る。張り詰める感情が解されると同時につられて瞼が落ちそうになるのを耐えた。もう少しこの時間を堪能したかった。彼女がくだけた態度を取るのは珍しい。周りの雰囲気に充てられたのかもしれない。
 妻が楽し気で何よりだと見守るうちに更に気を良くしたのか、知らない歌を妻は口ずさみ地面に咲く花へと細い手を伸ばした。歌も花の名も知らぬが和やかな雰囲気はどこか神秘的で己は口をはさめず静観に務める。
 何をするか見守るうちに妻は膝に転がる己に花を散らし、こちらを見下ろし心底嬉しげに綻ぶ。
 ……花に遠慮した癖に興味があれば引きちぎる様は酷薄だ。人であるかどうかの線引きしか彼女にはないのかもしれない。それでも、無情と断言するほど惨い性根ではない。花を投げ簪代わりに茎を髪に指して遊ぶさまはただの幼子でしかない。

 素性も知らぬ、この者以外ないと確信した女はどこから見ても平凡で、笑みこそ浮かべても愛想笑いが常だった。経歴を尋ねるには危ういと直感から避けてきたが悪人でないのは普段の振る舞いから察しがつき、ならばそれで良い、信を得ればいつか明かすだろうと、気長に構えていた矢先に向けられた温かい眼差しに心の臓を揺さぶられる。綺麗だ、童子のような振る舞いに興じても妻はいつだって美しかった。
 心から笑う事の少ない妻が笑うから、己も感化されて笑ったのだ。

 呼び掛けると妻の目がまん丸に見開く。夜の月明かりのような空気が一瞬ではじけ飛びいつもの凡庸とした雰囲気が戻ってくるのに己は少々安堵した。妻の笑みを見ていると神聖ささえ感じてどうしていいか分からなくなる……煩悩で少々狂っているのは自覚している。
 衆目に晒さなければ問題ないと胸中で言い訳をし、体制を変えて妻に伸し掛かった。先人に倣い摘んだ花を固まる妻に散らす。怯える表情を一変させ、妻は怒るが振りでしかないのは見て取れた。しばらくすると仕方なさそうに失笑し、ついには声をあげて笑いはにかむ。
 愛しいと、心から思った。
 可愛い、愛(う)いと心のままに褒めそやせば、美人の範疇に入らないと当人から何度も豪語された言葉が返る。それでも、あどけない微笑みが何よりも己には美しく感じられた。

 白い小花を散らす髪に簪代わりに花を挿す。口付け、日の高いうちから戯れる刻限ではないと承知で己は彼女の肌をまさぐろうとした。
 妻は抗議の声を上げるが、最後には仕方なげに微笑み己を受け入れる。いつだって、妻は己に甘かった。
 許しを得て調子に乗り滑らかな肌を撫でさする。途中周囲に人気が無いのを確認し行為に己は没頭した。
 妻の着物を乱し、白い肌を赤く染める。聞こえるか細い嬌声にもっと良くしてやろうと閨でしか触れない箇所に手をやり大きく体を開かせた。
 奪い、散々蹂躙した後、先に果てた妻の後を追う。
 事を終え息も絶え絶えに嬉しいと微笑む妻を抱き込み地面に転がった。大地と陽光そして腕の中に留めた妻は陽だまりのようだと暖かい体温に微睡んだところで、妙だなと首をかしげた。ここまで至っただろうか?と。
 そして強烈な違和感を覚えると同時に目を覚ました。


 そうだ、あの日はそこまでには至らなかった。止める妻の意を汲み途中で中断し馬車に戻ったのだ。事に至ったのは野営地で……
 ありもしない妄想を夢に見るなどどうかしている。気がたるんでいる証拠だ。
 目覚めたこの目に映るのは見慣れた天井、ここは寝室だ。右近衛大将が住む屋敷に花畑などある訳がない。
 下腹部にたまる生理的衝動にうんざりはしても我慢できる範疇にあり無視を決め込む。
 定刻通り目覚めた己は寝具から起き上がる。誰もいない、当然だ。身嗜みを整え、執務に励もうと襖を開けた。
 寝室を出る際、いってらっしゃいと聞こえる声は己の寂しさから生じた幻聴だととうに分かっている。


 妻は只人ではなかった。帝の妹だと結婚の挨拶に出向いた際告げられた。
 高官達が居並ぶ謁見の間で、想定していなかった事態に動揺する己に反し、妻は瞳をにじませ力なく笑った。知っていたと、いつかは迎えが来ると覚悟していたと力なく項垂れた。もっと後だと思いたかった!と、ナナコは涙で濡れる頬を両手で覆い恥じ入る様に小さく謝罪の言葉を落とした。
 嘘だと思いたかった。
 ナナコを欲する帝の嘘、と願いたい己の勝手な要求は、帝の言葉で蹴散らされる。
 帝はナナコを妹と確定し、周囲は当初の怪訝な反応を改め兄妹の再会に手を叩き喜びの意を示す。己もそうだった。
 憤る心情何もかもを抑え込み膝をつく。妻に迎えた不手際を詫び聖上がお待ちですと階上に向かうよう進める。
(昇らないでくれ、其方の居場所はそこではない。某の隣であろう? 某のものだと何度も言ったではないか。昇れば声を掛けられぬ。行かないでくれ、ここに居てくれっ、嘘だといつもの笑みをどうかっ、ナナコ……!)
 表裏が剥離したチグハグの内情に、胸を裂く痛みに耐える。
 分かっていた、聖上は嘘を言わぬ。彼の神が妹と告げるなら妻だった女は正しく神なのだ。この様な状況で嘘と言う方が不敬である。彼女の身を案じるならば喜んで見送るのが忠義であり、義務だ。日陰の身に甘んじさせた過去を思えば責めも追わず礼まで言われる帝室の方々の優しさに頭を下げるしかないのだ。某は果報者である。
 まして、宿した子が母体を喰らうならば離し保護するのが先決とお決めになられた聖上の命に従うのは当然。道理にのっとった的確な判断に感服するほかない。さすが聖上。
 ……母子ともに無事に済ませると豪語する御言葉を疑うのは不忠であり、異を唱える度胸など己にはありはしない。

 追い縋ろうと伸ばしたい手は意地でも下を向かせた。某は帝の臣下であり民に尽くすのが本分、帝がお探しになっていた方が見つかりその手助けが出来て何よりと思うべきなのだ。
 冷静な顔で泣き伏せる帝妹を階上に上がるよう進めた某が止めるなど本末転倒である。口に出来ない情けない世迷い言は胸の奥に叩き落とし、笑顔で嘆く妻に別れを告げたのだ。
(常世まで共にと、誓ったではないか……)
 ナナコと己を詰る言葉は喉奥に消える。言葉通り受け取る妻は涙を拭いきると気丈にも礼を言い微笑んだ。己は頭をたれ帝室に一層の忠誠を誓う。
 前を向き長い階段を昇りきる妻は、元妻だった女は帝妹として披露された。階下の臣下一同は喜びの声を上げ新たな神の到来を歓待した。
 あれから随分経つ。
 別れて数年が経つというのに、未だ己は割り切れずにいる。


 ◇◇◇


 夜半出仕から戻り書類仕事をこなそうと執務室で筆を滑らせていた。月が出ているのか、障子越しに差し込む光にもうそんな時刻かと筆を置いた。しんとした静けさに息をつく。
 そろそろ休んだら? 等と脳裏によぎる声に返事をしかけて失笑する。ネコネでないのは分かりきっている。あの子は妻が聖廟に上がってから塞ぎがちで元気づけようと今日も白楼閣に泊まらせていた。学士になっても、変わらず白楼閣に住まうトゥスクルの姫をネコネは姉と慕う。クオン殿の前では元気になるため任せているが、頼りすぎてはいけないと思うのに妹を預けるのは姉という存在に後ろ髪を引かれているせいかもしれない。妻はネコネにとっても姉だった。兄を慕うあまり反発こそしていたが心の内では認めていたのも大体察している。

 妻を懐かしむにしても長く時が過ぎた。いよいよ吹っ切れたと自認していたが、時折何でもない出来事から揺さぶられ耐える日々が続いていた。雇い入れた顔役殿が彼女の愛読書を見つけてから己は少々おかしい……などと他人のせいにするのは精進が足りぬゆえと目を伏せ内省した。
 正気を確かめるようと手を上げて目の前にかざす。
 いよいよかと常日頃覚悟していた散り際を見計ろうと手の甲に目をやるが未だ塩となる気配はない。有難いことだ、己はまだ民のため帝のために働ける。幸運と思い職務に邁進すべきと自戒するが……すべきなのに胸の痛みだけはどうにもならない。
 ふとした時に妻の思い出が甦るのだ。
 帰投し寝室の戸を開けた際、気の抜けた表情で寝入りはしてないかと視線を彷徨わせる。厠に向かえば行儀作法の指導に使っていた部屋が気になり覗いて何もないのに気落ちして自嘲する。廊下を行けば、それに付随する様々な出来事、例えば嫌がる彼女を抱えて戯れに興じ寝所に戻るまで我慢できず空いた部屋に押し倒し事に至った失態を思い返した。最後は涙ながらに怒られたなと本気で怒る妻の顔を思い出して内省する。すぐに己しかいない廊下に何を今更と内心でぼやく。
 嫌がるさまも愛らしく仕事に余裕があれば場所を己は選びはしなかった。夫の身を案じ休むよう執務室に声をかけに来た妻に己はちょっかいを出し、嫌がる妻に尻尾を躾だと引っ張られ、応酬した己のせいで寝込ませたこともあったなと……しつこく吹き出る煩悩にほとほと嫌気が差す。どれだけ反省を試みようとこの身は只の男でしかなかった。
 庭を見れば未だ残る彼女が手ずから植えた植栽に、畑仕事に精を出してはネコネに叱られしゅんとする姿を思い出しこちらまで胸が痛くなった。
 町に出ても自然面影が脳裏をよぎる。警邏の途中側道が目に入り誰もいない溝に姿を瞼の裏に描いてしまった。駆り出された溝掃除に妻は嬉々として鍬をふるい顔役に胡乱な目で見られる後姿をじっと見て馬が一声、我に返る己は馬の進みが遅れているのに気づき慌てて手綱を強く引いた。出来た馬は主の意図をよく汲んでくれる。いななき随伴する部下たちの歩調に合わせ平静を取り繕えた。折を見て労おうと馬の首を掻けば嬉しげに喉を鳴らす……表にこそ出ていないが失態は枚挙にいとまがない。
 今も、襖から妻がひょっこり顔を覗かせて、早く休んだら? と呼び掛けられはしないかと気もそぞろになる。
 執務室で、廊下で庭で、彼女と過ごした記憶がふいに甦るのは己の未練がまだ断ち切れてないためであろう。

 卓の引き出しを開けて漆塗りの小箱を取り出した。帝から賜る金印の横にはかつて妻が押し花にすると大事そうに袖に隠した残りをしまっている。帝と同列に扱うなど不忠と忠臣あたりに知られれば詰られそうだが、彼女は帝の妹だ。神が人の傍にいるよりは普通だろう。今までの方がおかしかったのだ。


 聖廟で只人としての彼女と別れる際、妻は泣いていた。謝罪と沈黙に徹した理由を明かされ己は納得し慰めの言葉をかけた。認められずとも生きてるならばいい、顔を合わす機会がなくとも尊き身分が確定すれば彼女の生存は保証される。追いすがらず見送った。毅然と、階段を上がる気丈なふるまいを称え、臣下の姿勢は崩さずに一層国に忠を尽くすと膝をつき誓ったのだ。
 周囲は称える、臣下の誉れに相応しい態度だと。帝妹殿の国への献身をさすが帝の妹だと褒めそやす。
 敵愾心を抱くものは情のない振る舞いだと詰るがそれ以上の追随はない。帝妹と知らず妻に迎えはしても、保護した者を悪戯に攻め立てれば帝室の不興を買うと踏んでのことだろう。静観に勤めれば殊更騒ぎたてもせず醜聞は収束した。
 反面己の内心は酷いものだった。聖廟ですまし顔の彼女を見るたびに何故と詰問したい衝動に何度も耐えた。
 人気がない内裏の物陰で辛そうに顔を覆う彼女を知らぬ振りで通り過ぎるのにどれだけ胸を痛めたか。人目に気づけば袖で顔を拭い気丈に微笑みはしても目じりに滲む隠しきれない涙にどれほど保護欲を駆り立てられたか、彼女は知らぬ。親しい振る舞いをすれば一時は慰められたのだろう。だが長い目で見れば曖昧な態度は彼女のためにはならない。某は右近衛大将オシュトルで目の前の方は帝妹殿下である。何度も相対する度に自身に言い聞かせ身分を逸脱した振る舞いを抑えるよう心掛けてきた。
 妻も……帝妹殿下も静観を務めるのが最良と口にせずとも察したのか知らぬ振り務めている。
 彼女を思い描くたびに、屋敷に戻り今まで通り共に過ごしたいと叫ぶ衝動を抑え込むのに苦労した。
 だがそれも気にしなければすぐに静まる。
 心の内でどれだけ荒れ狂おうと明かさなければそれは無いも同然、時と共に記憶は朧げになり身の内の嵐も静まったとふんでいたのだが、時折顔を覗かせるのが困りがちだ。どうにも諦めの悪い本心に苦笑するしかない。

 聖廟で彼女は今も静かに帝妹としての責務を果たしているのだろう。昼夜問わず帝妹殿下は我々の与り知らない業を使い、天候を操り各地に恵みをもたらしていると放った密偵から報告を受けている。仕組みは知らぬ、ただ御業としか言い様のない技を高官達の前で披露する姿を己は何度も拝観している。
 帝妹殿下は本来の立場に戻ると頭角を表し、御業としか言い様のない技で帝の要求に答え万民のためにその御手を振るわれていた。能ある鷹は爪を隠すというが、相対するたびに相応しい振る舞いを身に着ける彼女にただただ頭が下がるばかりである。


 取り留めのない思考を打ち切り、小箱から花を取り出す。保存状態が良くないためか色あせ欠け朽ちたものが多い。
 私物の始末は帝妹殿下当人から一任されている。本来は見つけ次第お返しすべきで、すでに他の物は傍付に届けさせていた。忘れ物が数点、屋敷を探れば容易に見つかるからそれに古い記憶を呼び起こされ未練を抑えるのに己は難儀し通しだ。
 もう無いと思うていたのに、見つけた花は処分するには忍びなく誰かにやるのも腹立たしい、お返ししようにもこうも儚くては運ぶ途中で損ねそうで忍びない……ただそれだけだ。常世までと誓ったくせに貫けぬならいっそ欠片でも我がものに、と狂い仕舞いこんでいる訳ではないと胸中で言い訳して苦笑した……血迷うているな。

 帝は帝妹に手を出した己を責めず、だが認めもしなかった。返せと懇願するのはおこがましく、傍で守る権利をと願っても許されなかった。ただそれだけの話でしかない。責を問われ職を追われず国とためのため職務に励める現状を幸運と思うべきなのに、どうしようもない苛立ちが時に顔を覗かせ鎮めるのに難儀している。

 嘆く心情を押し込めて、忘れ物に再度目をやり返さねばと思った。あの方は花を好む。捧げれば幾ばくかの慰めになろう。宮中の暮らしがあの方の精神に良いように働くとはとても思えない。むしろ……それ以上は出過ぎた考えゆえ思考を切り替える。
 清廉な方だった。軽薄を気どるが己が身を守るために壁を立てる方だとはとうに知っていた。他人ではなく物言わぬものに心を開いていたように思う。晴れる空を見上げ星に見惚れ、風に揺れる草花を愛していた。
 朽ちていようと彼女は受け取るだろう。人の情を大切にする方だった。思い出してほしい訳ではない、もし慣れぬ宮中で涙に暮れているなら癒したい、それだけの理由でかすれた感触を撫でさするが触れた箇所は塵となる。儚いものだ。まるで二人の関係を指し示すようだとすら……
 しみったれた感慨に目をつむり身の内の嵐が過ぎるのを待つがそれが良くなかったらしい。もう一人の己が囁く。今更過去を掘り返してどうすると、傷つけるだけだ、過去の傷を掘り返すなど不忠の極みと。無かったことにされるのが嫌ならば、いっそ浚い蹂躙し尽くせば二度と忘れはっ。
「……っ、愚かだな……」
 卓を空いた拳で叩き妄想を打ち払うが存外力を込め過ぎたらしい。自嘲し痛みを目を瞑ったままやり過ごす。己には選べない。その道は関わる者全てに泥を掛けるに等しい行為だ。最良は、静観に務め帝室を守るのみとよく理解している。その道しか進めない己の性根もよく分かっていた。

 痛いよ?と硬く瞑る瞼の裏でナナコが囁く。ナナコだったものがかつての笑みを浮かべ、辛いことは選ばなくてもいいんだよと怪しく笑う。
 何の記憶かとんと分からない。術の類の侵入を許したか考えてもそのようなものを防ぐ決壊は屋敷のかしこに張られている。単に分からなくなるほど時が経ち過ぎたということだろう。思い出は多々あるのに日々を重ねる内にナナコとの記憶は朧気になり徐々に曖昧になっていく。それが悲しかった。

 閉じていた目を開けば未練はすぐにかき消えた。痛む胸から目を逸らし、手に取る花をあらためて一瞥する。かの花の細部は朧げにしか覚えていないが白く小さかった。掌の花は処理が甘かったためか茶色く欠けている。
 帝妹殿の私物は関係のあった某に一任されていると再度思い返した。ゆえに明るみに出ようと咎められはしないと気後れする己を叱咤して、摘む花を口元にやり放り込んだ。上手くはない、かさつき苦かった。尊き方を傷つきかねない妄念を散らすためなどとの妄言は言い訳にはならない。重々承知の上の暴挙だ。
 これ以上ナナコとの思い出を失いたくない、それだけの動機で己は尊き方の品を損ねている。罪深くだが甘美だ。
 咀嚼はせず舌で舐めとり感触と味を堪能した後に飲み込む。味わうのではなく喰らったとの表現が確かだろう。嚥下した後に誰ともなしに呟く。
「某のものだと誓うて下されたのに、適えずにいるのはまた不忠である」
 己に言い聞かせるために呟く言葉は至極当然のように胸の内に落ちてきた。一度堰を切れば罪を犯す躊躇いは減り再度取り込むために箱の中へと手を伸ばす。
 彼女との思い出ごと浅ましい胸に閉じ込めながら二人の関係を思い返す。

 甘いだけの関係だった。かの方は遠慮から卑屈になりがちで頼られたくて己は何事にも必死だった。衣食住に不自由なく、重荷にならないよう彼女の周りを親しい者のみで固め、真綿を扱う様に丁寧に愛せば、憂う表情は消えないものの笑う数が増えたのだ。嬉しいと妻は囁き力になりたいと己の手を取りそのうち、して欲しいことはない?と身を寄せるまで心を許してくれていた。
 体を重ねるたびに、オシュトルのものでありたいと頬を染めるようになり、やっと想いが通じたかとただ安穏としていた己のなんと滑稽なことか。

 舌の上で感じる苦味にこうではなかったと憤る。花の味ではなく、自分達の関係性はただ甘いだけだったのにとこうなる勝手な都合で見知らぬ運命を呪った。蓋をしていた感情が噴出する。仕方ないと諦めた風で己は腹の内でずっと、妻子を浚われたと怒りを煮えたぎらせていた。
 道理の分からぬ子供ではない、だからお互い諦めた振りを少なくとも己は装う。彼女がどうかは知らないが性根が在りし日のままならば同じ憤りを抱いているのは容易に想像できた。
 怒りこそすれ帝の言葉には道理しかなく、そして己の帝への忠誠は変わらず国に尽くす信も変わっていない。彼女への思慕だけが淀みとぐろを巻いている。
 何故己に明かさなかったのかとの憤りは的外れだ。立場を考えれば明かせないのも仕方ないと自分でも頷けた。
 子の様子が仔細明かされないのは無念だが、時折御姿を見かければ母子ともに息災でそれだけが救いだった。
 認められずとも良い、貴方様がご健在ならと謙る内心も本心だ。反面、我が物に、連れ添えぬなら諸共にと乱心する心情も本心ではある。
 溜息をついた。堂々巡りばかり繰り返している。

 疲れで気が触れたのだ、明日になれば元通り。そう自分に言い訳して胸に募る思いごと、思い出の欠片を胸の内に落とし込めばナナコとの日々を忘れずにすむと血迷いほぼ腹の内に収めた。収めたというに、端に残る一つは手に取れない。
 身のうちに取り込みたいのも未練、手元に残したいのも未練、大事なものかもしれぬから然るべき方にお返しをと気負うくせに手放す選択を取れないのもまた未練だった。
 未練がましい己は結局どの道も選べず、蓋を閉め帝妹殿の忘れ物は見ない振りを決め込んだ。

 体内に妻の名残を留めたからか鬱憤も多少晴れた。万一気づかれ叱責を喰らえばとよぎる不安を即座に否定する。他人事だ、己も彼女も。好んで関われば足を引っ張る。安穏と過ごせるほど殿中の方々は甘くない。
 それでも、浅ましいと承知で願う。己が散った暁には思い人に泣かれたいと、あわよくば食され身の糧になりたいと血迷ってしまう。
 仮面を身に着けたものは短命が宿命づけられている。強大な力と引き換えに民の礎になれるならばと手に取った過去を後悔はしていない。己は帝妹殿下より先に散るのは絶対だ。未練に惑いはしても邪念はいずれ共に散ると考えれば気も晴れる。帝と同等長い時を生きる妻の安寧を心から祈っているのは確かだ。永久に安らかな日々をどうか、と。
 ……そこに幾ばくかの一方的な押しつけをかつての夫が試みようとしているなど、聖廟で暮らすナナコが知る由もない。

 引き出しを締めて下の段を開く。棚の奥には貴人になって久しい妻に向けた遺書を用意していた。他にも親しい者に充てて数名分仕舞ってある。己が散った際縁者に当てた遺書は必ず部下を通じて届くだろう。
 妻だった帝妹殿には耳障りのいい言葉を書き連ねた。己がものになってほしい等との本心はひた隠し彼女の胸をえぐる言葉を羅列している。 
 離縁の書面は互いに送っていない。送るほど割り切れてもおらず彼の方からもそういう書簡が届いたことは一度としてない……時折、体を気遣うものと子の成長を記した文が届くだけだ。ゆえに己も障りのない範囲で文を返している。
 他人事を決め込んでも夫だったものを粗略に扱う気はないと示す振る舞いが有難く、いざ事が起きれば妻がどう受け取り動くかは簡単に予想がつく。

 泣くか怒るか。己が果てたのちナナコががどのような表情をするか脳裏に描くが浮かぶのは泣き顔のみ。優しい彼女は慟哭するだろう。そして己の予測通り送る遺骨に手を伸ばす、はずだ。
 喰らうてくれ、その身果てても共にあろうと誓った通りに。

「思い出ごと常世まで共に。妻よ」
 無理は承知している、かの方は神であった。傍に永劫侍るなど在り得ぬ。単に欠片でも共に在れたらと夢想しただけだ。
 残した一花を箱に戻して蓋を閉じる。元の場所に仕舞い、今度は妹への文を書き直そうと別の引き出しを開けて仕事が終われば筆をとろうと卓の端に置いた。妹は正しく兄の意を汲み帝妹宛の書を認(したた)めるだろう。
 一輪だけ残すのも可哀そうになり遠征の折に彼女と訪れた街道を訪れる算段を付ける。摘んだ花は押し花にして横に並べれば一人きりではない。彼女の目に留まるまで寂しさも紛らわせるはずだ……感傷が過ぎるな。たかが花に妻を重ねるなどどうかしている。

 苦笑して顔を上げる。差し込む月影に妻の面影を見た。忘れられない傷を負えばいいと邪念をくすぶらせるくせに、己が死した後に心から笑える日が来ればいいと願うのもまた本心だった。
 己はやはりどこか狂っているのだろうとしつこい未練から目を逸らし開いた箱の蓋を閉じる。
 どのみち涙雨は降るだろう。早く開ければいいとしつこく妻の面影を脳裏に描く己を叱咤して書類仕事に戻った。

 筆を取る傍ら、彼女が己を食すときは苦味を感じないと良いと願うが、塩気に苦いも何もないと自嘲した。
 本格的に蓄積する疲れを自覚し額に手をやり項垂れる。疲れは雑念を呼ぶ。残る文に手をやりこれが終われば休もうと意気込み紙に筆を滑らせた。



 うたわれ夢小説 




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風と行く