6

今日が終われば、明日が来る。
明日になれば、今日は昨日という過去に名前が変わる。
そんな当たり前のことを忘れてしまうように、俺は一年前、過去の記憶の一切を無くした。

気が付いたら、病院のベッドだった。
何が何だか分からない俺はパニックになって、自分の腕に入っていた点滴を慌てて引き抜いた。腕からは血が流れてきて、行き場を失った点滴薬は床に水溜まりをつくった。
部屋に入ってきた看護師からは、あららーやっちゃったねー、って言われた。今なら軽い一言だなって思えるけど、あの時は悪魔が俺にとどめを刺しに来た台詞なんだと本気で思った。しばらく暴れたらしい。

俺が本当に落ち着いたのは、美月が面会に来てからだったという。
面会といっても、観察室という窓が付いた部屋に、美月が顔を覗かせるというだけのものだった。
それでも、あのときの安心感は半端じゃなかった。何故かは分からないが、この人間なら俺の味方をしてくれると、本気で思った。
その理由も、後々すぐに分かった。彼女は俺の恋人であり、婚約者なのだという。

俺は目覚めたその日から一週間後、退院した。
退院先は、俺と彼女が同棲していたというアパート。
俺は、何ともいえない不思議な気持ちでこのアパートへと足を運んだ。
俺が使っていたという、スリッパ、歯ブラシ、食器、Tシャツや下着など……。何ひとつ、自分の記憶に無いものだった。
もちろん彼女の存在も、明確に自分の記憶にある訳ではない。
何故か、見ていると安心する……というだけで。

「なあ、あんた……。本当に俺の彼女なのか?」

アパートに入り、綺麗に並べられたスリッパを見た途端、俺はそんなことを訊いていた。
だって、信じられなかった。自分の記憶に無い生活が目の前に広がっていて、数日前まではここで当たり前のように過ごしていたなんて。

「……」

ピクリ、と肩を震わせ振り返った彼女は、下唇を噛んでいた。
俺はしまった、と思った。
記憶を無くした、なんてとんでもなく面倒臭いことになってしまった俺のことを、彼女はわざわざ迎えに来てくれたのだ。入院中だって、彼女は毎日のように面会に来てくれた。
まるで、本当の家族のように。

「わ、悪い。俺……」

「ううん。覚えてないんだから、仕方がないわ」

そう言って、彼女は笑った。こっちが泣きたくなるぐらい、無理をした笑顔だった。
何も言えない俺に、どうぞとスリッパを差し出した彼女は、スタスタと居間の方に向かって行った。
その背中を追っていると、ふと純粋な疑問が湧き上がってくる。

「俺、こんないい彼女とどうやって付き合ったんだ……?」

だってまだ若そうだし、こんなに甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるし、見た目も俺の好みド直球ときた。まじで可愛い。過去の自分、どんだけ頑張ったんだよ……って話だ。
悶々と考えながら居間に入ると、彼女が俺の方を見て立ち尽くしていた。
どうやら今の独り言が聞こえたらしい。

「そ、そんなこと……。今はどうだっていいじゃない……! ほら、今日はもう疲れたでしょう? ゆっくり休んで……」

顔を真っ赤にしながら、しどろもどろに話す彼女。え、なにこれ。めっちゃ可愛い。

「ふっ、あはは。ありがとう」

目の前の彼女が急に愛おしくなって、つい手を握った。本当はハグしたかったんだけど、なんだか気恥ずかしくて、出来なかった。

「ありがとう。ありがとう、美月」

顔を上げてくれた彼女の瞳を見つめて、俺は続けた。

「これからも、よろしくな」


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