「逃げるぞ」
彼は私にそう言いました。
私には、彼の言った言葉の意味が分かりませんでした。
……いえ、訂正しましょう。
意味は分かります。
逃げる、とは、追って来るものの力の及ばぬ所に身を置く、回避する、という意味です。
ぞ、とは、人が、自分の意見を強く主張する際に用いる言葉です。
今の私が分からないのは、その追って来るもの、力の及ばぬものの存在です。
「何を呆けているんだ。早く行くぞ」
そう言って、彼は私の手を引き、走り出しました。
走る、という行為は、まだ未調整で、演習テストも終了していません。
腰部ががくがくと揺れ、膝関節がぎしぎしと軋みます。
重い頭部を、この細い首で支えるのがやっとです。
私の走る、は、実技テストの目標速度よりも遥かに遅く、実践できているとはいえません。
「今、よろしいでしょうか」
「は? なんだ、一体」
息を切らして、彼がこちらを振り向きます。
先程から、彼の脈拍数の上昇を感知しています。
この運動量でのこの数値…、一般30歳代男性の平均と比べ、はるかに早い段階でみられています。
恐らく肺機能と筋力の低下。喫煙と運動不足が原因でしょう。
BMIの値も、正常を逸脱し高値であると予想されます。
…おっと、無駄に脳を働かせている場合ではありませんでした。
「私を、元のジバコイルの姿に戻してはいかがでしょうか。間違いなく、今の状態よりも迅速に貴方の後を追う事が可能です。もしくは、モンスターボールに入れて頂ければ、」
「今は、それどころじゃない。言っておくが、チェンジングキーのある部屋には、もう入ることができない。それに騒ぎの最中、どさくさに紛れて、こうして逃げている……二人で駆け回っている姿を見て、他の研究員が何を思うか、何をしてくるか分からない。いいから走れ」
苦しそうに私の言葉を遮り、廊下の角を左へ曲がります。
丁度その時、施設内アナウンスが流れました。
「緊急コール、緊急コール。作戦、リリー。作戦リリー発令」
作戦リリー?
そんな作戦は、私のメモリーにありません。
しかし、彼はその意味が分かったのでしょう。アナウンスを聞いた途端、舌打ちをしました。
そして、
「急げ」
彼は、非常階段を指し、上へ昇るよう私に指示しました。
本当は、エレベーターを使う予定だったのだそうです。
私達は、階段を昇りました。
階段の昇降は、実技テスト済みです。
私は階段を昇りながら、彼の命令で一つひとつ、全ての照明を電磁波で破壊していきました。
もし追手が現れても、足止めになるからということでした。
途中から電線を伝ってショートしたのか、非常階段全ての照明が消えてしまいましたが、結果オーライです。
フラッシュという技を使って足場を照らし、私達は更に二十七階ほど上がりました。
ここは、地下一階です。
こんなに上層の階まで来たのは、生まれて初めてです。
そして、こんなに疲弊したのも、生まれて初めてです。
「よし、よし、上手くいきそうだ」
そう言って、彼は慎重に防災扉を開けて、廊下へ出ました。
彼の体力も非常に減退していましたが、何故か、本人は笑っていました。
とても嬉しそうに笑っていました。
それからの彼の行動は、とても早かったです。
一切の迷いも無く、すぐ傍の角にあった脚立を大き目の換気扇に向かって立て掛け、ルーバーとファンを手際よく取り外し、昇り、ダクト内へ入りました。
私も続けて入りました。
とても狭くて、汚いです。
私が昇った後、彼は脚立を思い切り蹴飛ばして、在らぬ方向へすっ飛ばしました。
ルーバーとファンを取り付けると、再び彼はダクト内をずるずると進み始めました。
手と膝を着いて進む彼に倣い、私も前へ進みます。
暗く、細長い道のりでした。
一体どれぐらい進んでいるのか全く分かりませんでしたが、階段を昇る時程の苦労は感じませんでした。
途中から私のパワー不足により、フラッシュを使うことが出来なくなりましたが、彼は問題ないと言って、どんどん前進して行きました。
真っ暗なダクトの内側に身体が擦れる音だけが、お互いの存在を確認する手段でした。
そして、終わりはすぐにやってきました。
いつの間にか、辺りが薄明かりに照らされ始めた頃でした。
「出口だ」
そう言って、彼は急に立ち上がりました。
彼が着ていた白衣は、埃やカビやその他のよく分からない何かで真っ黒に汚れてしまっていました。
よく見ると、その先は行き止まりになっていて、今度は上へ、ずっとずっと延びていました。
光が、上から射し込んできます。
「これを使って、昇るんだ」
彼は、手元に掛かっていたロープを私に差し出しました。
少し古そうですが、太くて丈夫な、クライミングロープです。
見上げると、上へ延びたダクトは先の方で湾曲しており、ロープはそこから伸びている様でした。
ロープを手に取り、足をダクトの側面に突くようにして、上へ一歩、二歩、と昇ります。
案外、上手くいきそうです。
下へ振り向くと、彼は一度頷いてこう言いました。
「ここから先の私の言葉を記憶し、実行しなさい」
私が了解すると、彼は頷きました。
「いいか、そのまま上へ昇って、外へ出るんだ。外へ出て真っ直ぐ進んだ先に、フェンスがある。フェンス沿いの右手に、廃棄物の収集所があるはずだ。左から二番目のポリバケツの底に、鍵を張り付けてある。その鍵を取ったら、その収集所にあるガレージへ、フェンス側から入りなさい。左手に、施設からの出口がみえるはずだ。大きい出口と小さい出口があるが、その鍵は小さい出口のものだ。南京錠を解除して、外へ出るんだ。出たらすぐ、南東の方角へ、道沿いに歩きなさい。少し小さい街に入るはずだ。そこから先は……、後は、自分で決めなさい。そこから先は、君の、好きなようにいきなさい。……以上だ」
「了解です、記憶しました。復唱します」
「え? ああ…、ふふ。いや、復唱はいらないよ。すぐに実行しなさい」
彼は笑いました。
私は、彼のことを十年以上前から知っていますが、彼の笑顔を見たことは、一度もありませんでした。
分厚い眼鏡のレンズの向こうで、彼の瞳は、ゆらりと揺れていました。
「それでは、実行します」
「ああ。行ってこい」
それから私は、彼の言った通り、ダクトを昇り、外へ出て、鍵を手に入れ、出口へと向かいました。
そして私はこの施設から、……ロケット団管轄第一研究所から、脱出しました。
彼の命令通り、脱出しました。
え? その時の私ですか?
そうですね。空の高さが、酷く恐ろしかったことを、よく覚えています。
その後、私はすぐに彼の元へ戻り、こっぴどく叱られ、共に脱出し、逃走の旅をすることになったのですが……。
それはまた、別の機会にお話ししましょう。
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