ふたり夜をこえて
ふたり夜をこえて
ぐ、り、こ。
三歩。
窓から落ちた影を器用に踏んで歩く。言葉の意味なんてとうの昔に忘れ去られてしまったから、この言葉が意味するものは分からない。有名な人の名前だったのかもしれない。
チョコレイトで、左から四番目の目的の部屋まで辿り着く。
今日はぽっかり穴が空いた月がよく見える。私はもう決して満ちることのない月のことが好きだった。強すぎない光は夜目に優しく、身体を夜に溶かしてくれる。
あってないような鍵を回して解錠し、部屋に音を消して入る。
部屋を借りた主は、いびきをかいて体を横にしていた。しこたまウィスキーをロックで煽っていたのだから当然と言えば当然だった。
最低限寝るだけの簡素な部屋をくるりと、見回してみる。
大した荷物もなく、あるものと言えば大きな十字架と小さな袋だった。なるほど牧師という自称は、あながち嘘ではないのかもしれない。このご時世、酒ぐらい飲まないと誰だってやっていけない。
けっして綺麗では無い袋に、多少の期待を込めて手をかけた。この瞬間はいつになっても慣れない。心拍が自分の耳の内まで聞こえて、指先まで汗が滲む。
「夜這いとは随分熱烈やないか」
その声に反射的に振り向きそうになるのをぐっと抑えて、二秒。声に動揺は乗せない。感情を悟られることはいつだって命取りだ。
「貴方がお持ち帰りしなかったからじゃない」
「ワイはもっとおっぱいのデッカイネーチャンが好みやねん」
懐に忍ばせたリボルバーに触れる。糸を張ったような緊張感と、手汗が乾くほどに冷たい銃の感触。
数秒の張り詰めた沈黙を破らんと、私は唇を濡らす。
「で、抱くの?」
「あ?」
「別に好みじゃなくたって穴があればいいでしょう」
「おんどれのようなちんちくりん誰が抱くねんマセガキが」
『あー、馬鹿らし。萎えてもうたわ』と言う声で緊張感が弛むのを感じて後ろを振り向く。男はハンドガンを指先でくるりと回して、ベッドに深く腰かけていた。刺すような敵意はもう感じなかった。
「別にそこまで若くは無いわ」
「そう言えるうちはまだまだガキや」
男はポケットから慣れた手つきで煙草を取り出し、火をつける。その仕草を何気なく目で追う。居心地悪かったのか、こちらにチラと視線をやると手で払う仕草をした。
「……はよ出て行かんかいガキ」
「このまま収穫なしだと店長にぶたれるんだもの」
「はぁ〜……」
頭をガシガシとかいて、大きな溜息をひとつ。確認した袋の中は着替えと小銭、ライターのオイル程度。肩も露骨に落ちそうになるというもの。こちらもこの際なんでもいいから、かっぱらって部屋の外に出たいのが本心だった。
彼は何かを迷うように唸っていたが、何かを決意したように煙草を潰して手を広げる。
「ほな寝るか」
「ちんちくりんは抱かないんじゃなくて?」
「おーおー口だけはいっちょ前やな」
煽り、煽られるがままに男の胸に飛び込む。スモーキーだけど甘い香り。それと洗っても消えない硝煙の匂い。べっとりとこびりついた死を布越しに感じて身震いする。
男の手が胸元を這い、忍ばせた銃を床に投げた。銃が床を滑って回る音がして、「あ」と声が漏れる。
「いらんやろ、こんなの」
宥めるように私の背中をようにさすって、胸元に頭を当てる。鎖骨を撫でる髪のくすぐったさ。
痛みが伴わない抱擁というのが久しかったせいか、私は戸惑った。男が呼吸をひとつすると、それを合図に心臓が早鐘を打つ。
とく、とく、とく。
きっと彼にも聞こえてしまっているだろう。それが酷く恥ずかしいことのような気がして身を捩った。一方的な陵辱を受けている時とは違う、不思議な感覚だった。手を回された背が熱を持つ。
「緊張しとるんか」
「生娘じゃあるまいし、ないよ」
「そうか」
背中を一定のリズムでぽん、ぽんと優しく叩かれる。
なんだ、抱くんじゃないのか。
やっとここで(遅いぐらいだが)、男が自分の事を抱く気は無いのだと気がつく。どこまでもガキ扱いで、泣く子をあやすように抱きしめられている。
「なんもせんから安心せい」
ざらりと耳に残る、泣きたくなるほど優しい声だった。
だからこそ、自分がとっても無力で惨めに感じる。
自分の心と身体を切り売りしないとままならない生。
力が欲しかった。こんな事を毎晩毎晩しなくていい、ひとりで生きていく寂しい力強さ。夜寝て、朝起きて、一枚のトーストを食べるみたいなの。
口の中で小さく、ほんとはと呟く。牧師相手だから懺悔でもするみたいに。
「夜は眠いの」
「そか」
「牧師さんは夜に眠れる?」
「あんまりな」
聖職者でも眠れないなら、誰だって眠れないんじゃないかと思う。毎日の不安をなぁなぁでやり過ごして、ひとり膝を抱えて朝を迎える。それは想像しても寂しい事だ。夜起きていても眠っていても、痛みをやり過ごす方法が変わらないなら意味なんてない。
そろり、男の背中に恐る恐る手を伸ばす。広くって、全然手が届かない。
見よう見まねで背中をぽんぽんと叩くも、恐らく私が感じているほどの安心感は彼に与えられはしないのだろう。一定のリズムを繰り返すのは、結構難しい事だった。
「兄弟おらへんやろ」
「こんな大きな赤ちゃんあやした事ないだけよ」
「まぁええ、今日は珍しく寒ない夜や」
月明かりに照らされた十字架の影は、伸びてベッドの影と交わった。曖昧な大きな影ひとつ。それを眺めているうちに段々と瞼が下がっていく。
私が貰った体温、私が与えられる体温。今日ぐらい寂しい思いをせず眠れたらいいなと、目の前の優しい男の事を想う。誰にだって安息日はあったっていい。
私の小さな小さな祈りだ。
おやすみ貴方。どうかおやすみなさい。
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