コスタ・デル・ソルへの慰安旅行から数日が過ぎた。
すっかり普段どおりの慌ただしさを取り戻した都市開発部門オフィスでは、仕事のスケジュールや家庭の都合で参加できなかった社員のために、と並べられた土産ものの菓子類だけが微かにバカンスの余韻を残していた。
「休憩入りまーす」
一人が声を上げるとともに、ミーティングスペースに集っていたグループが一斉に席を立つ。それに釣られるように一人、また一人とオフィスを離れていく社員達の様子に、もうそんな時間かと左手の時計に目を遣る。
午後の役員会議の開始時間から逆算するとちょうど良い頃合いだった。自身もカフェテリアに向かうべく、リーブは席を立った。
そこへ、そろりと近付く女性社員がひとり。
「リーブ統括、その後どうですか?」
「どう、とは…ああ、四番街駅前の補修工事の件ですか?それなら午後の会議で…」
「そうじゃなくて、さんのことです」
わざとらしくボリュームを落として囁く部下の言葉に、僅かに眉根が寄る。
「…何のことです」
「しらばっくれても無駄ですよ。コスタでいい雰囲気だったの知ってるんですから」
露骨に怪訝な顔を見せるこちらの様子は意に介さず、むしろその反応に何らかの確信を得たかのようにひそひそ話を続けてくる。
「他に気付いてる人はいないと思いますから、安心して下さいね!」
「何が安心なのか分からないんですが…」
「まあまあ。これからお昼ですか?ご一緒させて下さいよ」
にこにこ、もといにやにやと邪悪な(リーブにはそう見えた)笑みを浮かべる部下の姿に諦観の溜息を漏らしたのは、身に覚えがあるからだった。
確かに、先のコスタ・デル・ソルでのバカンスの最中、部下であると彼女の言うところの“いい雰囲気”になった、はずだった。
普段の淡々とした印象とは違った、柔らかな笑顔を見せてくれたと、二人で食事に行く約束を取り付けることにも成功した。
(そういえば、いま目の前にいる彼女の前で、二人きりになるべくを連れ出したのだった。自分の迂闊さに辟易する)
しかしミッドガルに戻ってからというもの、とは業務上必要なやりとりをするのみで、ほんの数日前の出来事が自分だけが見た夢だったのでは、と錯覚する程に、何事もないまま今に至っていた。
「…言っておきますが、何も出ませんよ」
「何も強請ろうってんじゃありませんよ。ひとまずカフェテリアに行きましょう」
「好きにして下さい…」
都市開発部門統括オフィスとフロアを同じくするカフェテリアは、昼食を求める社員でごった返していた。空席を探してか、ずんずんと先を行く部下に続いていると、途中何かに気付いたように小さく声を上げる。
「あ!」
「どうしました?」
「あそこ、噂をすればですよ」
視線の先にはと、見知らぬ男とがすぐ隣に並んで腰掛けている。どこか見覚えがある顔だが、うちの部署の人間ではない。
二人きりで食事をするような親しい異性がいたのかと急に心に重石でも乗せられたような感覚になるが、どうもの表情に翳りが見えるようで気にかかる。
「あれ、たしか第一営業部の人ですよ。成績はいいけどチャラ男で有名なんです」
「…さんと親しいんでしょうか」
「ナンパじゃないですか?」
「は?」
「さん、モテますからね」
聞き捨てならない情報がいくつかあったものの、特に捨て置けないのはナンパ、という言葉だった。社内でそんな行動を取るとはリーブには到底理解し難い事ではあったが、仮にその通りだとすれば、の表情にも説明がつく。
「もう少し近付いてみましょうか」
「ちょ、ちょっと」
そんなリーブの懸念を知ってか知らずか、部下はフロアのあちこちに置かれた観葉植物の陰に上手く身を潜めながら、するりするりとたちの居る卓に近付いていく。
あっという間に会話が聞き取れる程にまで距離を詰めると、ちょうど死角になる大きな植木の陰に身を潜める。完全に盗み聞きをする構えに後ろめたさを覚えるが、気にしている場合ではなかった。
と男の会話に耳を傾ける。
「あの…何か御用ですか」
「キミ、よくここで一人で食べてるよね」
「…はあ」
「どこの部署?前からかわいいな〜って思ってたんだよね」
それは紛う事無くナンパだった。リーブは眉間に皺が集中していくのが分かる。
一体会社に何をしに来ているんだ、という呆れもあるが、憤りの方が大きかった。彼女はどう見ても迷惑そうだ、この男は何故気付かないのか。
「連絡先教えてよ。今度遊ばない?」
「あの、困ります…」
「いや、勿体ぶらないでさ。ナンパ待ちでしょ?こんなところでいつも一人って」
「そんなんじゃ…」
男の勝手な言い分に、リーブの中で何かが弾ける。次の瞬間、考えるより早く、その場を飛び出していた。
「私の部下に、妙な絡み方をしないでもらえますか」
彼女が否定の声を上げようとするのと、それはほぼ同時だった。後ろから男の肩を叩くと、リーブは低く声を響かせる。
「は?誰…ってリーブ統括?!」
男は思わぬ横槍に煩わしげに顔を向けると、そのまさかの相手に声を裏返らせる。部署は違えど、統括を知らない社員などいるはずがなかった。
「席を外して下さい」
ぴしゃりと言い放つと、男はハイッとほとんど悲鳴のような声を上げて逃げ去る。思わず強い語気になった事に自分でも驚いたが、ひとまず虫を追い払うことには成功し、安堵の息を吐く。
「あの、リーブ統括…?」
は突如現れた上司の剣幕に心底驚いているようで、長い睫毛に縁取られた大きな目をさらに広げ、ぱちくりと瞬かせている。不思議そうに少し首を傾げるその様子が実に可愛らしい。
などと場違いな感想を浮かべると同時に、リーブの中でぶわ、と焦りが広がり出す。
「ええと、その。お困りかと思って声をかけたんですが、お邪魔してしまいましたか…?」
思わず割り込んでしまったが、もしや勘違いで余計なことをしたのでは。のどうとも捉え難い吃驚の表情に、嫌な緊張が走る。
「…助けてくださったんですか?」
「はい、そのつもり、でした…」
尻すぼみになる言葉に我ながら格好がつかない、とうんざりするが、それはの言葉に打ち消された。
「ありがとうございます。助かりました」
そう言ったの顔にはいまだ驚きの表情が張り付いているが、頬を赤く染め、わずかに瞳を潤ませている。今にも泣き出しそうにも見えるし、喜びや安堵にも似て見えるその表情は、リーブの胸をどくどくと高鳴らせた。
「でも、どうしてわかったんですか?」
のその当然の疑問に、あ、とリーブは置き去りにしてきた部下のことを思い出した。
慌てて彼女が身を潜めているはずの植木の陰に視線を移すと、ひょっこりとこちらを覗く顔と目が合った。事の一部始終を見守っていたらしい彼女はこちらに向けて小さくサムズアップすると、そのまま何処かへと姿を消した。
結果的にアシストを受けたことになったリーブは、彼女には後で何か奢らないとな、と考えながら、の質問に質問で返す。
「その、よくあるんですか?今みたいな…」
「まあ、たまにですけど」
「信じられないな…」
社内でナンパが横行しているとは思いもしなかったリーブは、顎に手を当てて顔を歪める。
「何か対策を考えないといけませんね」
仕事でもないのに妙に真剣な様子のリーブに、がふっと笑いを零す。
「す、すみません。なんだかホッとしてしまって」
随分と久し振りに見たような気がする彼女の笑顔はやはり太陽の海岸で見た時と違わぬ美しさで、リーブは自分の見たそれが夢ではなかった、と確信を得る。
どうやら、あの約束も自分の空想ではないらしい。
「さん」
「はい?」
「今夜、仕事の後、空いてますか」
「…はい」
「よかったら、食事に行きませんか?」
ようやく言えた。
たった一言を伝えるのに何日もかかってしまった自分の不甲斐なさは、今だけは不問とする。
「約束、忘れちゃったのかと思いました」
「…忘れるわけないじゃないですか」
ふわりと微笑む彼女の言葉は、肯定と捉えて良いのだろう。
リーブは胸に暖かい感情が広がるのを感じながら、自分はすっかりこの笑顔に惚れてしまったらしいと悟った。
その後、を一人にするのがどうにも心配だったリーブは、過保護にも彼女をオフィスまで送り届けた。
ひとりカフェテリアに戻り昼食を取りながら、午後の役員会議で社内でのナンパ禁止を提案をするべきか、と本気で考えていた。
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