雨曝しのベレッツァ


不気味なほど明るく、美しいとある晩。
その少女はひたすら走っていた。足は裸足で傷だらけになっていたが、そんなことは気にしてられないほどに切羽詰まっていたのだ。

後ろから駆けてくる複数の人間から、逃げなくてはならない。ただそれだけ。"それだけ"でも彼女は足を動かさなければならないのだ。そうしなければ、自分には死しかないと分かっていたのだ。

足がもつれそうになりながらも、恐怖で涙が目に溢れてもなお、前だけ進んで走った。後ろを振り向き追っ手の確認をした瞬間、彼女の身体がガクンと落ちた。

「あっ…!」

ぬかるんだ土に滑り、漆黒の闇が広がる坂に飲み込まれて行った。


――
―――。

「はーぁ、眠い眠い」

朝早くから郊外の"お客さん"の葬儀を終えて馬車で道を走っていた。ロンドンまでもう少しというところでふと前方に気になるものを見つけた。よくよく見ると、それは人間だ。道に傷だらけの少女が倒れていたのだ。

「お嬢さ〜ん?」

顔にかかる髪を退けると彼女は気絶しているようだった。黒髪に英国人ではない顔つき、東洋人だろうか。ボロボロの服を纏って身体中泥だらけで大きな傷もあるようだ。それにかなり衰弱している様子だ。

それに。
なにか違和感がある。

「こりゃ困ったねぇ」

葬儀屋は彼女を抱き抱えて、馬車に乗せたのだった。


眩しい光に目を覚ました。
暖かくて微睡みそうになりながら、私は見慣れない天井を見つめた。身体がズキズキと痛む。手を上げてみると、包帯が巻かれている。

「オヤ、起きたかィ?」

低い声が響く方を向くと、そこには背の高い男性が立っていた。真っ黒の神父服に、黒い帽子、そして銀色の長髪。
知らないその男に思わず身体が強張る。

「……どこ……?」
「道に倒れていたんだよ?覚えてない?」

――道に倒れていた? 私が?
――どうして、なんで?

必死に思考を巡らせてみる。部屋にかけてある鏡に視線を向ける。映った私は傷だらけだった。布団を捲ると足にも包帯が巻かれていて、少し動かしても痛かった。どうしてか一向に答えが出てこないことに、じっとりと嫌な汗をかいた。

「わたし、分からない……」

――私は何も覚えていなかった。
男性は私の背中をさすってくれて、落ち着かせてくれる。だけど、私の震えは止まらなかった。自分のことを何も覚えていないという恐怖が湧き上がってくるのだ。

「じゃあ、キミの名前は?」
「…名前、は……」

私の、名前……。

「……サラ」
「サラって言うのかい?」

その後、名前以外にも何か覚えていないかを尋ねられたがやっぱり私は他に何も覚えていなかった。堪えていたけれど、人前でポロポロと泣き出してしまった。
そんな私に葬儀屋と名乗る彼はホットミルクを差し出してくれた。

「何かの拍子に思い出すかもしれない。怖がることはないよ」
「…っ、ありがとうございます…」

私の涙を優しい手で拭ってくれる。
どうやら記憶が無くなっているのは自分のことだけらしい。自分のことを示す手掛かりは何一つなかった。

「困ったねぇ。まぁ、とりあえずここにいなよ」
「え、でも…」
「何処にも行く場所ないだろう?小生は生きたお客様も好きだしねェ」

長い前髪から少しだけのぞいた黄緑色の瞳にドキリとした。



To be continued…

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