幸福は足りていますか
今日はファントムハイヴ邸にお邪魔していた。というのもアンダーテイカーが少し用事があるというので、私は着いてきただけなのだけれど。
「サラさん、僕がやりますから!」
「いいの、いいの。私がやりたいだけだから」
しばらく待ってもアンダーテイカーは帰ってきそうにないので、私は庭の散歩に出た。そこで庭の掃除をするフィニとばったり出会ったのだ。
木の上に積もった雪を降ろそうとしていたのだが、雪どころか木の枝まで折れてしまっていた。だから、代わりに私がやってあげようと梯子に昇っている。
「お客様にそんな事させられないですよー!」
「平気、平気! ほら、もうちょっとだから」
高さもそれなりにあるが、怖さはない。
もう少しで全部の雪が降ろせる。
ぐっと手を伸ばした時、梯子がガクンと揺れて私の視界は急転換した。
「え、きゃああ――!?」
私が覚えているのは離れていく木と、倒れた梯子と、フィニの叫び声。その後、バタバタと人が来たのが足音で聞こえたけれど、そこで私の意識は途絶えた。
微睡の中。
私は何処かの家にいた。田舎の小さな家のようで、キッチンには男性と女性が並んで、楽しそうに話している。
「お父さん、お母さん…」
直感だった。
というのも、彼らの顔には靄が掛かっていて見えないのだ。なんとなく両親だというのも、ここがかつて暮らしていた村の家だというのも分かる。
これは、私の両親が健在で、私があの黒い城で事件に巻き込まれる前の記憶。
まだ、思い出せない事がある事に、今になって気づく。
私には両親の記憶をいまだ取り戻せていないのだ。そう気づいた時、とても居た堪れなくたった。幸せに暮らしながら、育ててくれた両親を忘れ続けているなんて、なんて親不孝なんだろう。そう思って仕方なかった。
「ごめんなさい……ごめんなさい……っ」
頬に当たる熱いもので目が覚めた。
目の前には少し驚いた顔をしたセバスチャン。
「お嬢様、大丈夫ですか?」
どうやら、あれは夢だったらしい。ベッドから身体を起こそうとするとセバスチャンが手伝ってくれた。ここはファントムハイヴ邸の一室らしい。暖炉の火がパチパチと音を立てている。
身動ぎしようとしたけれど背中が痛くて、腕を見ると大小様々な切り傷がある。
「……え、何これ……?」
「覚えておられないのですか? お嬢様は木から落ちたのですよ」
徐々に記憶が回復していく。
あの後急いでみんなで私を運んで治療してくれたらしい。背中を強く打っているようだけど、雪がクッションがわりになったのでそんな大事にはならなかった。でも、数日安静にしていないと行けないらしい。
「……アンダーテイカーは?」
「フィニに激昂中でございます。当たり前でしょうね、お客様に仕事を手伝わせていたのですから」
「ち、違うの! フィニは悪くないの! 私が勝手にやりたいって言っただけだから!」
セバスチャンに彼を止めてきて、と頼むと彼はクスリと笑う。
「大丈夫ですよ、葬儀屋さんは一度、お嬢様の着替えを取りに帰るとただ今留守にしてます」
「本当に?フィニ、辞めさせられたいしない?」
「えぇ。生憎、人手不足ですしね」
セバスチャンは悪戯っ子のような笑みを浮かべている。私はホッとして全身の力が抜けた。
「それではお嬢様。薬を塗りましょうか」
「え、薬?」
「ええ。背中の打ち身がひどいですので、塗っておいた方がよろしいと思いますよ」
セバスチャンは缶に入った薬を出して、私に後ろを向くように言う。
「……あの、自分で塗れるから……」
「背中は塗りづらいでしょう? お手伝い致しますよ」
「……えっと、あっ、そうだ!メイリンはいる?彼女に頼もうかな!」
「彼女は夕食の準備中でございまして…、手が空いておりません」
流石に、セバスチャンに、アンダーテイカー以外の男性に肌を晒すのには躊躇がある。顔が火照るのを感じた。
セバスチャンは相変わらずの美しい笑みを浮かべて「大丈夫ですよ」と言う。
「私は使用人です。お嬢様に、お客様に何かしようなど主人である坊っちゃまにお叱りを受けます」
「……」
「信用して頂けませんか?」
「……あ、あっち向いてて」
そう言えば、セバスチャンは素直に後ろを向いた。
私はネグリジェの前のボタンを外して、背中を露わにする。シーツを胸に当てて、一度深呼吸をしてから震える声でセバスチャンに声を掛けた。
「おや、やはり腫れて、アザになってしまっていますね」
「え、本当?」
「綺麗な背中が勿体無いですねぇ」
「……っ」
――絶対今のワザと言った。
「失礼します」と彼は私に一声かけて背中に薬を塗っていく。彼の男性的な手の感触が肌に直接感じて、身体中が熱い。
「お嬢様」
突然彼の手が私のうなじにかかる。長い指で首筋をなぞられて、身体が跳ねてしまう。
「葬儀屋さんから、私が人間ではない事を聞いておられるのでしょう?」
「え」
ゾクッと、今まで感じた事のない感覚が襲う。後ろを見ようと、振り向こうとした時、ガッと肩にセバスチャンの両手が触る。振り向く事を拒まれているように、身体が動かせなかった。
セバスチャンの声が耳元で囁かれる。
「私はね、悪魔なんですよ?御存知ですよね?」
「アンダーテイカー、から聞いたけど……」
少し前、セバスチャンについて聞かされていた。死神にとっての天敵だったという悪魔。引退した今でもあまり好きにはなれないと、アンダーテイカーが珍しく顔をしかめて言っていた。だからあまりセバスチャンには近付いてはいけないとも。
「どうして、そんな事…」
「ひとつ、忠告も含めてお伝えした方が宜しいかと思いましてね」
彼の指がするりと回ってきて、私の首をギュッと掴む。いつものセバスチャンと違う。怖くて仕方ないのに、身体が言うことを聞かない。
「どうしてか、貴女の魂は魅力的です。」
――このまま喰べてしまいましょうか?
心臓が跳ね上がると同時に、ガンッと大きな音を立てて部屋の扉が開いた。
「なァ〜にやってるのかなァ?執事くん?」
いつもより低いアンダーテイカーの声が聞こえて、ゾッとするほど冷たい気配が一瞬にして消える。セバスチャンが薬の缶を閉める音をさせて、ゆっくりと私から離れる。
「おや、葬儀屋さん。随分御早いお帰りですね」
「何処ぞの害虫の気配がするから飛んで帰ってきた次第さ」
アンダーテイカーと眼が合って、私は慌ててネグリジェを着る。明らかに機嫌が悪い。彼はセバスチャンに詰め寄ると、「出て行っておくれ」とドスの効いた声で言う。
「では夕食の時間に、また」
セバスチャンは臆する様子もなく、余裕の表情のまま部屋から出て行った。
アンダーテイカーは深いため息を吐いてから、私の顔を覗き込む。彼の手で頬を包まれてその温かさに急に安堵が溢れる。
「サラ、小生をあまり心配させないでおくれ」
「ごめんなさい…」
アンダーテイカーにセバスチャンに何をされたのか聞かれたけれど、私はただ薬を塗ってもらっていただけと、それだけ伝えた。彼は何か言いたげだったけれど、何も言わなかった。
「私、もうちょっと寝ようかな…」
何だか今日はとても疲れた。
アンダーテイカーは私に毛布を掛けると額にキスを送ってくれる。
「小生もここに居るから、安心にしてお眠り」
アンダーテイカーの後ろに真っ白な満月が輝いて、私達を優しく照らしてくれている。手を繋いだまま、私は目を閉じた。
また、あの「夢」を見るのではないかと不安だったが、両親は現れなかった。
To be continued….
ALICE+