赤鉛筆
「そうそう、上手。君はセンスがあるね」
そう言ってあなたの絵を覗きこむ男の人の瞳を見る。
きっとこの世界のどの色鉛筆でも表現できないほど、澄んできれいな琥珀色をしていた。
白いブラウスの袖から伸びる母の手は、あなたの小さくてふっくらした子供の手よりも大きくて、手を繋いだ時などはその違いがよくわかった。
指が白く長くすらりとしているので、あなたはいつもきれいだな、と思って眺めている。
その指先には、最近どこかでつけたのか小さな切り傷がひとつあった。
美しい手だけに、それがわりと目立つ。きっと紙を繰る際についたのだろうと察せられたのは、母がアルケミストの能力を持ちながら司書という立場で図書館に勤務しているからだ。
私生活においても本をよく読む母の部屋には、所狭しと重そうな全集やら古びた文庫本やらが並べられており、たまに著者や内容について優しく教えてくれた。
そのため、あなたは小学生という幼い身分ながら、同級生に比べ文学に対しての知識が豊富だった。銀河を駆ける汽車の行方や極楽より垂らされた蜘蛛の糸の結末、サーカスのブランコは不思議な擬音を発して揺れることを十かそこらの年齢で知っている。
とはいっても、母も与える本は比較的読みやすい物を選んでいる。あなたの年頃にしては知識がある、という話であり、専門的な話などはまだまだできない。
その日は、学校に母が迎えに来ていた。
今日は勤務先の図書館が休館日で母の仕事が午前中のみだったことと、父の誕生日が近いので学校帰りに一緒に贈り物を見に行こうという約束をしていたのだ。
父は政府機関で働いており、夫婦仲はあなたが時々呆れるくらい良好だった。
そのあなたも、お父さんが大好きだ。
今日はお夕飯も豪華にしましょうね――ケーキは苺がのったやつね!――お父さんの誕生日なんだから、お父さんが好きなチョコケーキにしましょう。
苺のはあなたの時ね――二人でそんな会話をしながら、西日が差しこむ帝都路面電車に揺られて降り立った時、母はふと黒革のハンドバッグの中を見てあら、と声を上げた。
「あなたちゃん、お母さん大切なお仕事道具忘れちゃったみたい」
「えっ! じゃあとりに行かなきゃだめじゃない?」
「そうねえ。ここからなら行って戻ってきてもまだ時間はあるから。ごめんね」
そうして仕事帰りや学校帰りの人が行き交う賑やかな停車場を移動して、学生の後ろに母と並んだ。
学生は、電車が来るまでの時間つぶしにと眠そうな目で何やら本を読んでいる。
それを低い視点から見上げて、あなたはそういえばお母さんの図書館に行くのは初めてだなあとぼんやり思っていた。お母さんは、どんなところでお仕事をしているんだろう。
「わあー」
「すごいでしょ。あなたちゃんは地元のしか行ったことないものねえ」
母が勤務する国定図書館は、いままで見たどんな図書館よりも大きく、厳めしく、美しいつくりだった。
本当に図書館?窓がたくさんあって、何階建てなんだろうと数えようとしてもちっとも見当なんかつかない。
関係者用の入り口は建物の横手にあった。
職員もまばらな事務所に挨拶をし、そこからランプの灯された廊下を進んでいく。
あまりにもきょろきょろするあなたに吹き出した母の、中央玄関のほうもちょっと見ていく?という提案に頷き、エントランスまで連れてきてもらった。
内部もそれはすごかった。
どこかのお屋敷のように落ちついた赤のカーペットが敷かれ、壁紙も上品な光沢を湛えている。
よく磨かれた木の手すり、中央の階段を上がると大きな扉があり、この先はどうなってるんだろうとあなたの好奇心が疼いた。
「ちょっと待っててね、取りに行ってくるから」
母がそう言っていると、奥の扉がギィィと開いて、エントランスに優しげなまなざしの、色白の男の人が現れた。
たれ目がちの目と視線が合えば、思慮深そうな落ちついた琥珀色の瞳はどこか憂いを帯びているようで、子供心にも惹きつけられる。
かっこいい、というよりは美人という表現の方が合うような人だった。
「あれ、司書さん。帰ったんじゃなかったの?」
作り物めいて綺麗な男の人が、口を開いて、低く柔らかな声で言葉を発したのであなたは内心どきりとした。
作り物めいて――この時、あなたは子供特有の勘でその存在の本質を見抜いていたのかもしれなかったが、やはり幼い思考はその自覚まで至らず、隣で母が挨拶するのをただ聴いていた。
「高村先生。実は忘れ物をしてしまいまして……」
「そうなんだ。もしかしてそこのお嬢さんは娘さんかな」
かがんで視線を合わせてくれたその男性は、近くで見るとやっぱり美しい瞳を持っていた。
その人はふわふわと柔らかそうな明るい色の髪の毛を、端正な貌の左側でまとめている。胸元では月を象ったような美しい装飾がきらめいた。
タッセルが並んだ腰布は渋みのある緑色。
きっとこの色にも、なにか別の、あなたが知らない美しい名前がついているのだろうと思った。
「そうなんです。ほらあなた、ご挨拶よ」
あなたは、いつもなら自分から元気に挨拶するような子だったがこの時は違った。
その男の人があまりにきれいなので、ぽーっと見とれてしまっていたのだ。
「……こんにちは。あなたです……」
もごもごと言いながら母に身を隠すようにして寄り添う。
はきはきと挨拶できなかったあなたに気を悪くするでもなく、もう一度にこりと微笑むと、高村先生と呼ばれた男性は母に「司書室でまだ白秋さんが作業していたよ」と告げた。
「じゃあ鍵を取りに行くこともなさそうですね。
ごめんなさい、高村先生。もしご予定などなければ、この子の事みていて頂けませんか」
「いいよ。ここじゃなんだし、談話室で待っててもいいかな。
あそこなら仕事関係のものもないし、あなたちゃんが入っても大丈夫だと思うんだけど」
「はい。すみませんがよろしくお願い致します。あなたもいい子にしてるのよ」
「うん」
そう言うと母は、先ほどあなたが気になっていた中央の扉を開けて奥に消えていった。
ちらりと見えたその先は長い廊下がといくつもの扉が並んでいて、ここで母か、この「高村先生」とはぐれたら、迷って一生出て来れなそうだと思い唾を飲み込む。
そして「高村先生」と二人きりになったことにも若干の気まずさと緊張を覚えていたが、相手は気にした風でもなく「あ、そうだ」と何かに気付いてあなたに向き合った。
「紹介が遅れたね。僕は高村っていうんだ。
君のお母さんの……同僚みたいなものだよ」
最後の方は、一瞬どう表現しようか迷った様子だったが、とにかく母と同じような仕事をしているらしい。あなたにはアルケミストの事も司書の事も詳しくはわからなかったが、母から説明を受けていた「みんながこれからも本を読めるようにする仕事」という言葉を思い出して、立派な事をしている人なんだという認識に定めた。
そういえば、お母さんが呼んでた「先生」ってなんだろう。同僚だけど、ちょっと偉い人なのかな。
その後案内された先の住居用の別館は、これもまた立派なお屋敷のように古めかしくも美しい内装で――「いつもなら誰かいるんだけど、今日は出払ってるみたいだね」という高村さんの言葉を聞き逃すほど――あなたは再び驚いたのだった。
***
「何か本とか持ってくるかい?」
高村は、食堂から持ってきたオレンジジュースを、硝子のデカンタからグラスに注ぎながらあなたに聞いた。
机の上にはビスケットやチョコレート。あなたの好きなものばかりだ。
「といっても絵本とかはこっちの別館にあまりないんだけど…」
「絵本じゃなくてもだいじょうぶ」
「へえ、例えば?」
グラスを客人の前に置きながら、高村は好奇心をたたえた瞳できろりとあなたを見た。
「えっと、宮沢賢治のね、本とかも読めるよ」
あなたは柔らかいモスグリーンの生地が張られた、ふかふかのソファに座り直しながら、これまで母親に勧められて呼んできた本を羅列した。
高村にも少し打ち解けてきた気がするので、先ほどよりは多く話せる。
「よだかの星か。賢治さんの話は僕も大好きだよ」
賢治さん。学校の先生だってそう呼ばない、聴き慣れない呼び方だ。まるで――
「『賢治さん』ってお友達みたい」
「お友達だからね」
「お友達?」
「そう。大切なお友達」
オレンジジュースを飲みながら、ふふっと悪戯っぽく笑うその人に首をかしげながら、あなたもグラスに口をつけた。
どうやら明確な説明はしてくれないらしい。
宮沢賢治はもう死んだ人なのに、不思議な言い方をする。
同姓同名の友達でもいるのだろうか。
「本じゃなくてね、今のうちに宿題をやっちゃいたいの」
本は、今はいい。家に帰ったら読みかけの本がたくさんあるし、先ほどやるべき事があったのを思い出していたのだ。母を待っている間、今日学校で出された宿題を終わらせてしまおうと思った。
「どんな宿題なの?」
「お花の絵。学校でちょっと描いたから、あとは仕上げるだけ」
「絵か。絵なら力になれるかもしれないよ。見せてもらえるかな」
あまり得意とは言えない絵を出会ったばかりの人に見せるのは流石に気が引けたが、実のところあなたも仕上げに困っていたのでおずおずとランドセルから封筒を取り出して差し出し、色鉛筆の缶を机に置いた。
絵心がある様子だから、このお兄さんに手伝ってもらえば本当にすぐ終わるかもしれない。
母には内緒だが、図画の授業で本当は居残りさせられそうだったのを、母と一緒に買い物へ行きたくて明日に延ばしてもらったものだった。
あなたが選んだのは、校庭の花壇に咲いていたパンジーだ。
植えられていたのは紫系のもので、紫と言っても淵が淡く色づいているだけのものから赤みがかったものなど様々な種類があった。
頑張ってある程度描けたはいいが、持っている色鉛筆ではどうにもイメージ通りのものを表現できそうになかったので、筆が進まなかったのだ。
先生は忙しそうにしていて、疑問を口にするのも気が引けた。
「色をね、塗ってみたんだけど、どれもちがうの」
「どんなふうに違うの?」
とりあえず手持ちの色鉛筆で基本的な色を塗っては見たものの、紫は一色しかなかったのであのはっとするような色とりどりの美しさが出せなかった。
「このへんのがね、もうちょっと赤かった気がする…」
「じゃあ、重ねて塗ってしまえばいいんだよ」
「重ねて?」
「うん。赤の鉛筆を貸してごらん」
手渡した時、あなたは男の人の手を見た。
お母さんとも自分とも違う、骨ばった男の人の手だった。お父さん以外の男の人の手をこうして間近に見るのは初めてかもしれなかった。
そして気になったのは――。
「こうして、重ねてあげたらいいよ」
思考は静かで柔らかな声に打ち切られる。
高村が鉛筆を寝かせて優しく紙面を撫でると、ほんのりと花色に赤みが加わった。
確かにこんな色だった気がする。そうか、なんて簡単なことだったのだろう。
「こんな感じかな」とスッスッと迷いもなく色を重ねていく高村は、なるほど絵を描き慣れているのだとあなたにもわかった。
(そっか、色をまぜちゃえばよかったんだ!)
「はい、どうぞ。こんな感じで塗っていけばいいんじゃないかな。
元の絵が丁寧に描けているから、あとは塗るのも苦じゃないと思うよ」
「ありがとう!」
手渡された赤鉛筆は少し体温を残していて、少しどきっとした。
その小さな動揺を悟られないようにして、同じように描いてみる。
どういたしまして、と頬杖をついてあなたの作業を見守るまなざしはとても優しい。
「そうそう、上手。君はセンスがあるね」
そう言ってあなたの絵を覗きこむ男の人の瞳を見る。
きっとこの世界のどの色鉛筆でも表現できないほど、澄んできれいな琥珀色をしていた。
「ごめんなさい、館長とお話してたら遅くなって。あなたちゃん、いい子にしてた?」
「してたよ!」
「あれから二人で絵を描いていたんだよね」
途中から高村もスケッチを始め、二人で和やかに会話をしつつ絵が完成した頃、母親はちょうど良いタイミングで談話室に帰ってきた。
「ね」と同意を求める高村に「うん!」と返事をする。
高村と仲良くなれたが、この時間もこれでおしまい。母の職場には今後もそうそう来ることはないだろうから、再会も難しそうだと子供ながらに理解して少し寂しいが、仕方ない。
もう下級生じゃないんだから、と自分に言い聞かせた。
(だから、そのかわりに)
エントランスでの見送りの最中、帰り支度もとうに終えていたランドセルを再び開け、その中のあるものを取り出して高村に渡した。
「これ、あげる」
「これって…さっきの赤鉛筆? あなたちゃんは使わないの?」
「うん、まだ他にも家にあるの! 今日のお礼」
「先生、せっかくだから貰ってあげてください。
先生に遊んでもらえて嬉しかったんだわ」
母親の言葉も添えられて、高村はそっと赤鉛筆を受け取った。
そのとき、あなたは二人の間に縁ができたようで、嬉しくなった。
少しの時間を共有しただけで、その人の詳しい素性も知らないが、高村が笑って「ありがとう」と言ってくれただけで、あなたは笑顔になれた。
最初に赤鉛筆を渡した時――たとえその身から、図書館で働く人とは無縁のはずの、火薬みたいな匂いを微かに感じ取っていたとしても、もう気にならなかった。
誰かに言いふらすこともない。
あなたには、あのうつくしい時間の思い出があれば十分だ。
「じゃあね、あなたちゃん」
「うん!『賢治さん』にもよろしくね!」
きょとんとして一拍子おいた後、高村は吹き出して、「言っておくよ」と手を振ってくれたのに対し、あなたも満面の笑みで手を振り返したのだった。