※死ネタです。


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あなたのためなら喜んで命を差し出そう。

だなんて、歴史ドラマとかに出てくる武士たちが使うような台詞だと思っていた。いや、今も思っている。実際にそんな言葉を言う機会なんて今まで生きてきた人生の中で一度だってなかったし、単純に死に直面することもなかったというのもある。仮にあったとしても自分の命を差し出してもいいと思えるような相手に出会えなければ、やはり言う機会なんてないだろう。
自分がそんな台詞を言っている場面を想像して、ないな…と自嘲気味に笑った。どうしても髷を結ったお侍さんが切腹するところが頭を過ぎるのだ。昔は本当にそんな人が居たらしいけれど、それも凄く前の話。西暦が1000年代だなんて私の先祖をどれくらい遡ればいいのだろう。授業では千年くらい前だと習ったのを思いだして、考えるのをやめた。


「苗字さん、何やってるんだ!早く逃げろ!」
「逃げない!私がひきつけるから、慶次が逃げて」
「出来るわけないだろ、そんなこと!」

今、私はあの言葉を言おうとしている。
大昔の先祖が言っていたかもしれないあの言葉を。
火星に着陸してから数日、味方の裏切りやゴキブリの襲来にチームは分散され、主力が居なければとても生きて還れる状況にはなかった。マーズランキングでもほぼ下位に分類される私には、ゴキブリを倒すことはおろか時間稼ぎだって難しい。様子を見つつ、じりじりとよってくる黒い巨体に震える足を押さえながら牽制をすることしか出来なかった。
いつ、どこから、どうやって攻撃されるかも分からないこの状況で私が出来ることなんて限られている。

逃げるか、戦って死ぬか。

慶次一人ならきっと確実に逃げられるだろう。私がいたら足手まといになることは目に見えて分かっている。自分の非力さは火星に着いてから嫌という程思い知った。ずっと守られてばかりだった。ここで慶次にかっこ悪いところを見られるくらいなら、死んだほうがマシだ。どうせ死ぬ運命なら、少しくらい格好つけさせてほしい。

でもきっと私の背中を守ってくれている慶次は私を逃がそうとするだろう。自分のことはいいから、逃げろと。それが鬼塚慶次という男だ。誰よりもかっこよくて、強い心を持った、優しい人。こんなにイイ男が、こんなところでゴキブリなんかに殺されていいわけがない。

「私は、逃げない。私が、慶次を守りたい。命を懸けても」
「こんなときに何を…」
「こんなときにしか言えないでしょ?」

本心だった。本当に、慶次のためなら死んでもいいと思った。そんな人に出会えたことに感動すら覚えた。他人のために自分の命を懸けるなんて、火星にくる前までは夢にも思わなかったというのに。

「俺が囮になる。だからその隙に…」
「慶次、最期くらい私に見せ場を譲ってよ」

ゴキブリの所為で、後ろを振り返ることは出来ないけど慶次の纏う空気が一瞬戸惑ったことは何となく分かった。おかしなことを言っている自覚もある。でも、私は大真面目だ。

鬼塚慶次に初めて会った時は、真面目なただの青年だと思った。でも、違った。真面目な心優しい青年だった。同年代の男たちは皆明るくて子供らしさを残していたけど、慶次はどこか大人びて見えた。
24歳なら落ち着いているのが普通なのかもしれないけど、私には新鮮だった。そんな慶次と話すのは何よりも楽しかった。
ボクシングのチャンピオンだったこと、母親のこと、地球に還ったら働いて恋人を探して母親が安心できるような生活を送りたいと言っていたこと。私は全部覚えている。彼の言葉は全部。
好きになってから、次第に私は彼と生きたいと思うようになっていた。でも、これから向かう火星には巨大化したゴキブリたちが居る。命の危険もある。そのために、生存率の低い手術も受けたし、戦闘の訓練もした。死ぬ覚悟だってしてきたつもりだった。
無事に地球に還ったら、慶次に想いを伝えよう。そう決めたのは火星についてからだった。まさかここまで追い詰められるなんて考えもしなかったから、今更後悔している。

「私ね、慶次のためなら命なんていらないよ」
「馬鹿なことを言うな!いらないなんて言うなよ…!」

私の言葉に、慶次が怒気を孕んだ口調で言う。慶次は大切な人の死を知っている。だから、私が簡単に言った言葉が許せなかったのかもしれない。こんな時だから、こんな状況じゃないと言えないのに。半端な覚悟で言ったわけじゃないのに。慶次には伝わらないのが悲しい。

それまで様子見だったゴキブリたちが慶次の大声を機に、一斉に襲い掛かってくる。変態した慶次に守られながら、私も能力を使い微力ながらも補助に回った。本当は、私一人残れば済む話なのだ。私がゴキブリを引き付ければ、慶次が逃げるくらいの時間はある。ゴキブリが狙う相手には優先順位があることは知っていた。間違いなく、女である私が先だ。

「おい、何してる?!何で抵抗しないんだ!」
「私、慶次のことが好きだよ。大好き」
「…今言うことじゃない!」
「今じゃなきゃだめなの」

今しか言えないの。その言葉が届いたかどうかは分からない。一斉に私に向かってくるゴキブリが私と慶次の間に壁を作った。あっという間に手足を掴まれ、ミシリと骨が軋む。
怖い。本当は死ぬのが怖い。でも、慶次が死ぬ方がもっと怖い。好きな人が目の前で死ぬなんて嫌。
ボロボロと溢れてくる涙は止まらない。視界はぼやけて、間近で攻撃してくるゴキブリたちもはっきりと見えなかった。

もし地球に帰って恋人になれたら、慶次と色んなところに行きたかった。手も繋ぎたいし、キスもしたかった。抱き合いたいし、歳をとっても一緒に居たかった。

「名前!死ぬなよ、名前!」

私の想像の中の景色と私たち二人はセピア色だった。
体を裂かれる痛みと熱も、私の綺麗な想像は引き裂けない。微かに聞こえる慶次の声に幸福感が込み上げてくる。慶次が名前を呼んでくれるなんて夢みたい。もしかしたら、これも私の想像だろうか。

あなたのためなら喜んで命を差しだそう。自分が言うことになるなんて笑える。千年前のお侍も、私と同じように大切な人のために戦っていたに違いない。

想像の中、慶次と腕を組んで歩く私はとても幸せそうだった。それが幻だとしても。
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