十二国記
「遠心分離終わったサンプルたちフリーザー入れといたから。私ちょっと牛舎行ってくる」
「ありがと、行ってらー」
某10秒チャージを謳っているゼリー飲料を口からぶらさげながらぷらぷらと後ろ手に見送ってくれる友人を置いて研究室を出る。エアコンの効いた部屋から出た途端、まだ屋内だというのにも関わらず鬱陶しいくらいの熱気が全身を襲った。
卒業論文を無事終えて半年。半分以上は休日だとも言われる大学生活の中でも大きな連休である筈の夏季休業、研究をする為に院へと進むことを選んだ彼女にとっては講義や課題に気を取られることなく研究に時間が使える有意義な期間だ。
研究棟を出て、平日と比べ驚くほど閑散としている構内を歩く。門を出て道路を一つ挟んだところにもう一つ門があり、そこを通れば大学所有の農場があって牛舎や畑が広がっている。門近くにある小さな更衣室で作業着に着替えてから牛舎の入り口を潜った。
畜産農家とは違い、あくまでも大学所有のもの。そこまで規模も大きくない為ほとんど世話は手作業だ。今の研究室に所属してから当番制で回ってきていたそれは今になれば手馴れたもので、さっさとスコップを手に掃除を終わらせ手ぐれで餌を与えていく。
「ふふ、おはよ」
与えられた新しい餌に皆が鼻先を埋める中、近寄ってきた一頭に楓は頬を緩めた。
鼻と鼻をくっつけるように匂いを嗅ぎ、その後甘えるように額を胸元に擦りつけてくる。正直なところを言うなら切られて短くなっているとはいえ角が痛いのだが、それを気にせず角の根本辺りを掻くように撫でてやれば嬉しそうに一声鳴いた。
牛は思っていたよりも賢い生き物だ。その巨体に少しでも怯えればそれを敏感に感じ取ってこちらを侮り言う事を聞かない、逆に自分はこの人間に管理されているのだと認めれば大人しく従う。
初めにそう教授から教えられた楓は、元来の動物好きの性故に恐怖心が全く起きなかったことも相まって研究室の中でも上手く牛を扱う方だった。だが周りの牛とは違い従う以上の好意を示してくるのが一頭いた。それがこの牛だ。
出会った時には既に乳飲み子でもなかった為刷り込みが行われたわけでもない。理由は分からないが懐いてくるこの牛を楓もまた可愛がった。
「今日は暑いね」
一通り擦り寄ってからやっと牧草を食べ始めたその背に凭れながら、その牛にかひとり言か、彼女はぽつりと呟いた。
額から流れる汗を拭う。着ているツナギの上半身を脱いで袖を腰元で結びつけても不快感はあまり変わらなかった。Tシャツが背中に張り付いて気持ち悪い。
今年は記録的な猛暑だそうだ。とは言っても、毎年毎年例年よりも猛暑日が多いだとか真夏並の気温だとかニュースで言っているので最早どれだけ暑いのかも分からない。
アスファルトの地面からはじりじりと湯気がたち、蝉たちの鳴き声が耳につく。ファンからの風さえ生温さを通り越して熱風のようで、牛たちの食欲が落ちていないのが救いに思えるくらいだった。
「佐藤ー!」
「はーい!」
「血液のサンプル、そいつだけ逃げられてまだ採れてないんだ。頼んでいいかー?」
「了解ですー」
入口から響いてきた先輩の声が、やけに遠く聞こえる。意識をはっきりさせるように軽く頭を振って寄りかかっていた背を離す。
そいつ、とは先程まで擦り寄ってきていたこの牛のことだ。普段は基本的に誰に対しても従順だが、注射や削蹄など自分によって不愉快なことをされる気配を感じると一転してどの牛よりも神経質に逃げ回る。唯一嫌がられないのが楓だった。
明らかに自分の方を向いて不機嫌そうにブモッと鳴いたその牛を見て苦笑した先輩は、悪いな、と頭を下げるとそのまま去って行く。
修論となると学部生よりも随分と分厚い論文を仕上げなければならない、内容のレベルも桁違いだ。それを熟し更にドクターへと進んだ、常に忙しそうにしているその人の手伝いは別に嫌ではなかった。
「なに、ついて来てくれんの?」
サンプルを採るならばこのままでは行えない。
服装はいいとしても器具とせめて手元だけは清潔にしなければと柵から出ようとすると、牧草を食べ終わりゆったりと反芻していたその牛もまた追うようにして後ろを歩いて来た。
別に柵の中でも採血は行えるが、まぁ来るというなら連れて行こうか。その方が往復回数は減るし。そう思い無造作に置かれていたロープの中から一本手に取ると鼻環と角周りとを通す。
特に嫌がる様子もなく大人しくされるがままの牛にしっかりとロープが固定されたことを確認すると、楓はそれを引いて牛を伴い柵を出た。
屋根が無くなれば余計に暑くなる。
毎日嫌になる程暑いとは思っていたが、本当に今日の暑さは異常ではないだろうか。顎の先から何度も落ちる汗にそんなことを思い、意味もなく隣を歩く牛の鼻先を撫でる。
突如、視界が陰った。
大きな雲が太陽を遮ったのか、辺りが薄暗くなる。じりじりと焦がすような直射日光が無くなり、なのに暑さ故の不快感は全く変わらない。
寧ろ、流れていく汗は多くなっているような。ロープが手汗を吸い取りじっとりと重くなっている。
なんだろうか。空を見上げ、異変を目にすると同時に楓の身体はそれに吸い込まれた。
( っ!?)
砂嵐のような、暗くて、風が強くて、渦巻いているもの。
声を出すことすら敵わない。目に入った次には目の前まで迫っていたそれに一瞬で地面から掬い上げられ、全身を空気圧が襲う。
自分が今浮いているのか地面に叩きつけられているのかも分からない衝撃の中、楓はただ無我夢中で隣の存在にしがみついていた。
一体何が起こったのか。
それを考える間もなく、彼女の存在はこの世界から消えた。
20150922