頬を温かいものが何度も滑る感触に目を覚ました。
薄目を開けるとやけに眩しく感じ、逃げるように固く目を瞑る。しかし起きるのを急かすかのように柔らかいものがぐいぐいと顔に押し付けられ、しぶしぶ楓は再びその目を開いた。
ぼんやりと視界にうつる薄いピンク色のそれは、牛の鼻だ。確かめるように顔中に押し付けられ、次いでまた何度も頬を舐められる。おかげで顔はどろどろだ。
応えるように鼻の頭を軽く撫でてやれば、その牛は嬉しそうに一声鳴いた。


「ここは…」


自分は先程まで何をしていたのだったろうか。上半身を起こし、右手にロープが絡まっていることに気付いた。そして傍らに佇んでいる一頭の牛。急激に思考回路がクリアになっていく。
そうだ、先輩に採血を頼まれて農場内を歩いている途中。急に薄暗くなったかと思ったら、砂嵐のようなものが空から近付いてきて。確かにそれに飲み込まれたのだ。
そこからの記憶が無い。というよりはその砂嵐自体が夢で、それよりも前に熱中症で倒れたということも考えられる。あれだけ暑かったのだから。
どちらにしろ、今自分は大学の敷地内か、大事でもどこかの病院にいる筈で。


「…海?」


だが、彼女がいる場所はそのどちらでもなかった。
半袖から伸びる腕には、というよりは身体のそこかしこに砂がこびり付いている。先程顔がどろどろだと思ったが、砂がついていない分寧ろ綺麗な方なのかもしれない。
服が湿っていることから考えると、全身濡れた状態で砂浜に寝転んでいたらしい。髪の毛からもざりざりとした感触が伝わってくる。


少なくとも、大学の近くに海なんて無い。
大体にして、傍らの牛を繋いだロープを彼女は握ったままで。ならば移動したとは考えにくい、だが移動していないならここは一体どこだ。
波の音だけが妙に目立つ。とりあえず払えるだけ汚れを払って立ち上がってみても、自分が見覚えの無い場所にいるという現実が変わることは無かった。


何かを誤魔化すように牛の額を撫でる。その手が震えているのが嫌でも分かった。
固く、だがどこか手触りのいい毛並みが、今この現状において己以外に唯一記憶と違わないもので。その事実にどこか慰められる。


「どこだろ、ここ」


着ているものも、傍らの牛も。確かに自分の記憶と違い無いのに。取り巻く環境だけが大きく異なる。
楓は海が好きだった。元々海の無い県で生まれ育った彼女は、雪の降らない地方の人間が雪に憧れるように海に憧れた。海を前にすれば彼女の胸は躍った。
彼女の知る海はこんなにも暗い色では無かった。恐怖を与えてくるものでは無かった。


右を見ても左を見ても人が見当たらない。それが彼女の不安を煽り、同時にどこか安心もする。
全く訳の分からない現状、とにかく誰か人に頼りたい。ここがどこだか聞きたい、何が起こったのか知っているか尋ねたい。しかし誰にも見つかってはならない気もして。
背後には案外近くに森のようなものが広がっていた。疎らに生えている木は奥に行くほどどんどん密度を増しているのか、目を凝らしても薄暗く様子を窺うことは出来ない。
海の向こうに見えるものは何もなくて、今楓がとれる行動は浜を移動してみるか森に入ってみるか、それかこの場所に留まるかの三択のようだ。
悠長に一番最後の選択肢を選べる程彼女は子供ではなかった。


一番在り得るのは、これが夢だということなのだけど。
彼女は今まで夢の中でこれは夢だと気付いたこともあれば、実際に夢から覚めてあぁあれは夢だったのだと安心したことも落胆したこともある。リアル過ぎる夢をみたことがある故に、今夢の中にいる可能性は否定できない。
その考えが少しばかり彼女を楽観視させ、背中を押した。とりあえず動こうと腰を上げロープを引けば、牛は全く逆らうことなくゆっくりと楓の隣を歩き始める。


とりあえず、この子の食料は確保しないといけない。勿論彼女自身もだが。そう思い川を見つけることにした。海があるのならどこかしらに流れ込む川があるかもしれない、それに沿って森に入ることにしよう。
抵抗の無いロープを緩々と腕に巻き、ふとこの手綱は必要だろうかと考える。考え、必要ないなと判断した彼女は角周りと鼻環からロープを外すと適当に腕に括り付けた。違和感が無くなったからか牛は軽く頭を振る、目元辺りを撫でてやれば顔を大きく擦りつけてきた。
と思えば牛は急に座り込んだ。一歩先に進んだところで楓も立ち止まると、牛は彼女の足に鼻先を数度押し付けると自分の背中の方を振り返り、その頭を下げた。
見上げてくる目と視線が合う。まるで、乗れとでも言うように。


「いいの?」


ブモ、と。返ってきた小さな鳴き声。
恐らくこちらの言葉を理解しているわけではない、ただこの牛は前から話しかければ何かしらの反応を返してきた。
背に乗るのも、前に一度楓が興味半分で乗ろうとしたら大人しく乗せてくれて、その際に彼女が喜ぶ様子を見て以後たまに乗せようとしてくれるようになった。本当に賢い子だ。
好意に甘えていつものように背によじ登ると、ゆっくりと立ち上がった牛が歩き出す。


「…名前つけようかな」


お前とか、あの子とか。特に呼び名が無くても困らなかったし、この牛は大学のもので言ってしまえば研究対象、いくら可愛がっていても懐いてくれても名前をつける気はなかった。その一線は越えないと決めていた。
だけどなんとなく今なら許される気がして。決して座り心地の良くは無い背を軽く叩きながら言う。ブモ、返ってきた声はお好きにどうぞとでも言っているのだろうか。
牛、ホルスタイン、白黒。関連単語を思い浮かべながら、彼女はゆったりと牛の背に揺られた。




20150923