海岸から離れ山の中に足を踏み入れてから、どのくらい歩いただろうか。歩いた、とは言っても実際自分で足は動かしていないのだけれど。歩いたのは楓ではなく彼女を乗せている牛だ。
ゆっくりと一定の速度で歩く牛の背に乗り、獣道のようなところを進んでいく。どうやらこの山に人の手は加わっていないようだ。だが整備されていない割に進むには困らない程度の植物の蔓延り具合を見るに、土が痩せているのかもしれない。
好き放題生い茂る木々に覆われ頭上から届く光は少ない。夜になったら視界に困るだろうか、それとも月や星が明るいのか。そもそも今が何時なのかも分からない。
何も持ってないからなぁ、と溜め息をつく。楓の格好は大学入学時に学科の全員でお揃いで作った実習用のツナギ、その下に同じく学科のTシャツと、それに高校時代の部活のハーフパンツだ。牛舎に入ると臭いが移る為余計な私物は持って行かない、故にポケットには何も入っていなかった。
足元は黒いゴム長靴。少し大きめなので歩きにくいといえば歩きにくいが、山道では普通の運動靴よりも重宝するかもしれない。
「…牛でメスって言ったらやっぱりありきたりなのはモモちゃんよね」
「モー?」
「んー、でもなんか違うかな。モモ…」
見た限り、自分の知っている山というものと変わらない。でも大学の近くにこんな山はなかった。彼女の大学があるのは東京なのだ、周りに田んぼしかない田舎だけれど。
どう頑張ってみても先程からちっとも現状把握が進まない。いつの間にか見知らぬ場所にいた、分かるのはそれだけだ。
楓の思考は牛の名前をどうするかという方向に転がっていく。現実逃避ではなく気分転換だと言ってもらいたい。なんとなく今までの一線引いた薄っぺらい関係からは変化する気がするのだ、この牛とは。
モモ。そういえばそんな題名の本が流行ったなぁなんて思いながら、何度かその言葉を口の中で呟いて。
「トウ…トウコってどう?桃に子って書くの」
角の付け根から額にかけて、指を立て掻くようにして撫でる。
相変わらずゆっくりとした歩調で進む牛は、楓の言葉に彼女を仰ぎ見るように視線を寄越すと、ブモ、相変わらず絶妙なタイミングで短く鳴いてみせた。
桃子。もう一度口にすると名前に愛着が沸いてくる。もし人間の子供につけたら間違いなく読み間違えられるが、文字に起こすことなどそうそう無いだろうしいいだろう。単なる自己満足だし。
さて、思考の現実逃避は終わってしまった。
せめて腕時計でもつけていれば時間くらいは分かっただろうか。愛用していたのはシンプルなアナログだったから自分の記憶からどれくらい経ったのかなんて分からないけれど。
すん、と鼻を動かしてみる。土の乾いた匂い。がさり、がさりと落ち葉の上を踏む音。
自分が妙に落ち着いていられるのはこの牛の、桃子の存在が大きいのだろう。自分以外の体温に触れていると安心する。首の辺りの皮が余っている部分をたぷたぷと触れば相変わらずの触り心地の良さで。
気付けば、頭上の木々で分かりにくいものの先程よりも薄暗くなってきているかもしれない。
夜が近付いているのだろうか。体感温度としてはあまり下がっていないように思うけれど、これから急激に下がるのか、それともこのままか。そもそも危険はないのだろうか。
そんなことを考え始めると俄かに心臓の音が煩くなる。落ち着け、と言い聞かせて息を一つ吸って吐く。もう楓は自分の現状が夢だとは思っていなかった。
「桃子、川はまだかしらねー」
「ンモ」
「穴でも掘ろうかな…」
サバイバルの知識なんて全く無いが、なんとなく水辺の近くがいい気がする。あとありがちだけど洞窟とか、それが無ければ地面や崖に穴を掘って夜は落ち着きたい。
今は身一つで心もとないし、桃子は動物といえど家畜化されているのだ、野生の本能なんて期待できる筈もない。とか言いながら安全な場所とか探し当ててくれないかと期待している部分もあるのだけれど。
夜になるまでに落ち着けるだろうか。一晩寝て起きれば、色々とまた考えがはっきりするだろう。今はまだなんだかんだ混乱していると思う、多分。
また少し暗くなった山の中、一人と一頭はゆっくり奥へ奥へと進んでいった。
20151029