夜は訪れた。楓の知っている時間の流れと同じように。
だんだんと視界が暗くなり温度も下がり、木々の間から覗く空は暗く、その上にぽつぽつと小さな光たちが姿を現す。たまに月のようなものも見えた。
水の音が聞こえてくることはなく、今夜はどうしようかと考えていると桃子がとある木の下で足を止めた。見たことの無い、何かの実のようなものがなっている木。そのまま腰を下ろした桃子はどうやら動く気は無いらしく足を投げ出し寛ぐ体制をとる。
何かを訴えるようにこちらを見てくる牛に楓もその背から降りた。今夜はここで休むつもりらしい。植物の影に隠れられるわけでもない開けているそこに、だがどこか安心したように顎を地面につける桃子を見て彼女もならいいかと楽観的に身体の力を抜くことにした。
温かい大きな身体に背を預ける。包み込むように顔を寄せてくる桃子の頬を撫でて目を閉じた。


自分なりに気を張っていたのだろう、視界を閉ざすと同時に抗い難い眠気が押し寄せてくる。
眠ってしまってもいいものかと頭のどこかが警鐘を鳴らしたが、もし本当にこれが現実なのだとしたら、これから先ずっと眠らないなんて出来る筈がない。
既に身体は指の先まで鉛のように重い。ブモ、と低い声に宥められるように、楓の意識はゆっくりと沈んでいく。


時折、どこか遠くの方で何か動物の唸り声のようなものが聞こえた気がした。
それでも何故だか眠りを妨げるような危険を感じることなく一夜が明けた。




「…おはよう、桃子」
「ンモ」


日が昇り始めたくらいの時間だろうか。寝た時間が分からないからどのくらい眠っていたのかも分からない。すっと眠りが途切れて目が覚める。
生憎あまり快適な目覚めではなかったけれど。恐らく空腹が眠気を上回ったのだろう、胃の中が空っぽで気持ち悪い。
情けない音をたてる腹を摩って上半身を起こす。思っていたよりも身体は痛くない。
よく炬燵で転寝したり床で雑魚寝しても案外平気だったしなぁ、だなんてことを考えたところで、ふと一瞬思考回路が止まった。


「…夢じゃなかったんだ」


ぽつりと呟く。
比較的すっきりとした頭が昨日からの状況を振り返る。よく分からない場所にいるという状況は変わらず、どうやらこれは現実のようだ。相変わらずどこなのかは分からない。
この際異世界でも過去でもなんでもいい。とりあえず空腹をどうにかしなければ。胃が縮む音が静かな中妙に響く。


ブモ、モ。
桃子が低い声で短く鳴き始めた。断続的なそれに楓ははっとして桃子の顔を見る。乳の部分を触るとかなり張っていた。
桃子は丁度この前双子の子牛を産んだばかりの雌牛だ。すっかり失念していた自分に舌打ちし、ごめんね、とその額を掻いた。
乳牛である桃子は分娩を終えた後の授乳期間、朝と夕に毎日搾乳の時間があった。それが無くなり、勿論飲む子牛もいないとなれば、ただ作り続けられる乳が溜まり乳房炎になってしまうのだ。
低い断続的な鳴き声は母親が子供を呼ぶときのもの。乳が張ってきた証拠だ。


「ミルキングパーラーって偉大よね…」
「ンモー」


なるべく服で手を擦って、楓は慣れた手付きで乳を搾り始める。今は機械での搾乳が普及している為手作業で搾ることはそう無いが、そういえば初めての実習で教授がこれを観光牧場でやろうと思ったら数千円かかるからなと言っていたのが印象に残っている。
途中、何かの木の実のようなものが虫に食われた状態で落ちているのを見つけ、木の枝や石を駆使して中身をくり抜きコップのようなものを作った。そこに乳を搾って飲む。
搾りたての乳は、恐らく一般的なイメージより美味しいものではない。味が薄いのだ。だが喉の渇きと空腹に襲われていた楓の口にはこれ以上なく甘く感じられた。
何度も何度も小さな器に搾っては飲む。だがそれを幾度か繰り返したところで、じれったくなってしまい開けた口の上に直接絞った。


暫く飲み続け、咽たところで我に返った。残りの乳を搾り終え、立ち上がると背中を伸ばす。
子供を育てる為のものだ。これだけでいい筈はないけれど、暫く餓死の心配はしなくていいかもしれない。
でも。


「桃子の水を確保しないことにはね」
「ブモ?」
「あなた喉乾いてないの?」
「モー」
「どっちよ」


思わずくすりと笑ってしまう。本当にこの牛は、人の言葉を分かっているのかいないのか。
再び背に乗って歩き出す。再び夜が訪れるまでには川を見つけられるといいのだが。


本当にここはどこなのだろう。
上を見上げてみても、相変わらず生い茂る木々の間から変わらぬ空が覗いているだけだった。




20151124