淡い空色が広がる中に、幾つかの白色がぼんやりと溶け込む。
さわさわと吹き抜けていく風と程良い気温に不快度指数は正しくゼロ、太陽光の熱を吸収する黒い死覇装とお昼過ぎという時間帯も手伝ってか、気候も何もかもが文句なしのお昼寝日和で。
特に緊急事態が発生しそうな要素も無い。思わず欠伸が零れても咎められないような、穏やかで長閑な心地よさ。
平穏。その2文字がぴったりと当て嵌まる、そんな柔らかい時間の流れ。
ただ、その平穏が仮初のものであることは、ここ瀞霊廷に関わっている者ならば誰でもが知っていることだった。
「修兵さんっ」
長い長い入り組んだ廊下、一から十三までの数字が立ち並ぶ。
その中の九の辺りで軽い足音が響き、次いで慣れたように開けられた襖の先には髪の毛をふわりと揺らした少女が数センチの厚さの書類を抱えながら立っていて。
「おー、お疲れさん。どうだった?」
「三が少し、あとは五が特に滞ってますね。ただ五番隊の業務は十番隊が引き受けるとのことでしたので、吉良副隊長を少しお手伝いしてきました」
その少女が持っているものとは比べ物にならないくらいの書類の山に囲まれた机で、休むことなく目と筆とを動かしていた修兵が手を休め顔を上げる。
これまた慣れたように近付いてくる楓に声をかけながらついでとばかりに肩や首をぐるりと回せば、ぽきり、あまり聞こえてほしくはない音が鳴った。
恐らくは瀞霊廷で五本指に入るであろうくらいには書類処理が素早い楓。
九番隊の第三席に身を置く彼女は、しかしそれ以前から隊長クラスの書類さえも難なくこなすことは九番隊の者を始め一部の間では有名な話で。
今回の、藍染他隊長2名による謀反によってもたらされた被害はたった一月やそこらで回復出来る程生易しいものではなく、平隊員や席官はもちろん、隊長副隊長でさえ未だ床に伏せている者がいる現状では、どこの隊も明らかに人手不足だった。
特に、隊長が抜けた三番隊と、九番隊。そして隊長がいなくなり副隊長は意識を戻していない五番隊。
埋まらない穴のせいで溜まっていく一方な書類たちを循環させるべく、総隊長、そして何より己の直属上司である修兵に言われ他隊の仕事を手伝って回っているのだが。
「あとこれ、一緒にうち宛ての書類も預かってきました」
「おう、サンキュ。」
目元を和らげながら、くしゃりと頭を撫でられる。
ただでさえ人員不足で忙しい瀞霊廷内、程度の差はあれどどこの隊も人手が欲しいのが現状で。
引っ張りだこになっている自分を労わるかのように、悪いなと、そんな謝罪が込められているかのような大きな手。
いつもと変わらない、ゴツゴツしていて、所々に肉刺がある手が己の頭から離れていくのをじっと見つめる。
隊長が、または隊長と副隊長が不在な隊は三と五と九。
どこの隊も大変な時期、隊の間に差はあっても比べるようなことじゃない。
いなくなった隊長、それをどこか受け入れきれずに感情を持て余したり。
未だ床に伏せているあの黒髪の副隊長とか、それを複雑な目で見つめている彼とか。
比べることじゃない、考えることじゃない、分かってる。
分かっている、けど。
「…」
「楓?」
隊長がいない隊。
ここ九番隊の隊長だった東仙もいなくなった。
東仙隊長はホント部下にものを頼まないから…隊長業務がこんなに忙しかったなんてな
いつだっただろう、そんなに前のことではないと思う。
夜、なんとなく眠れなくて月を見ていた自分の前に現れた修兵と共に静かに酒を飲み交わしていた際、彼がふと零した言葉。
ぽろりと零れてそのまま霧散していったそれは、しかし楓の中に何となく根付いてしまって。
さっきみたいに目元を和らげた修兵はすぐさま別の話題に移っていったけれど。
目元を、口元を。柔らかく、優しく緩める。
そんな小さな笑い方も今までにたくさん見てきた。でも、最近はその笑顔しか見ていない。
「そういやそろそろ休憩時間か。お前どうせ働き詰めだろ、休んでこい」
「修兵さんも付き合ってくれますか?」
「…仕方ねぇな」
自身の隊だけでなく、他の隊の書類業務にも追われる楓のことを修兵はいつも気にかけてくれる。
それが嬉しくないとは言わない、やっぱり嬉しい。誰かが自分のことを考えてくれる、それはとても幸せなことだから。
しかし、例えばそこで自分が修兵を気遣ったら、仕事を手伝うと申し出てみたら。
彼は大丈夫だとしか言わない。九番隊は大丈夫だから他の隊を、こっちは大丈夫だから少し休め、あの小さく優しい笑顔で。
今だって、そう。1人で休むのは居た堪れないと、食堂に1人で行くのは寂しいと。そんな表情で見上げてみれば、仕方ないなと苦笑と共に腰を上げてくれるけれど。
知っている。たった1人残って遅くまで仕事を片付けていること、ふとした時に遠くを見つめて顔を歪めていること。
東仙に、戻って来て欲しいと思っていること。
(三席なのに、なぁ)
考えては、比べてはいけない。分かっている。自分の力不足。分かっている。
人の感情は天秤にかけるものではないし、頼られないのは頼られるだけの存在になれていないから。
でも、だけど。そう言いたくもなる、しかし修兵はきっと望んでいない。
絶望したような目、現実を拒絶し続ける意識。脳裏に浮かべては追い払う。ごちゃごちゃするのももやもやするのも、全部、全部。
知らない、こんな感情なんて。
ガタンと席を立って視線で促してくる背中を追いかけて、執務室を後にして。
どこまでも麗らかな空の下、見上げた顔に浮かぶのはやっぱり小さく柔らかい笑顔だった。
そんなの、悲しい
(君が我慢して笑ってるなんて、君だけが悲しいなんて、)
20120403