まだ他に誰も出勤してきていない庁舎内。とは言っても仮眠室からは徹夜組の気配がちらほらとするが。
付箋に書かれた文字たちに視線をやり、今日やるべきことを順番に頭の中で組み立てる。朝食代わりにコンビニで仕入れたスムージーを腹に入れ、あ、この味は当たりだななどと考えながらパソコンの電源を入れたところで机の上に投げていた携帯がメールの受信を知らせてきた。
こんな時間から珍しい、と思う。誰かから急ぎの案件だろうかと画面に指を滑らせると、多忙故にほとんど登庁することのない元指導係の先輩からのものだった。
『時間あるときに電話が欲しい』
簡潔にそれだけ綴られた本文を見て、次いで右上に表示されている現在時刻を見て数秒考える。
電話をかけるには些か非常識な時間だ。だがメールはたった今来たものだし、携帯を弄れないような状況ではないのだろう。うっかり着信があっては拙いような状況で電源を切り忘れるような人でもないし。
なら早く動くに越したことはない、出なかったら出なかったで後ほどかけ直せばいいだけだ。そう判断してすぐさま指が覚えている番号を入力すると、1コールもかからずに出た降谷は開口一番苦笑を零した。
『おはよう。……期待はしてたが本当に早いな』
「おはようございます。どうかしました?」
『今日中に頼みたい資料があるのと、……今もう庁舎か?』
「はい」
『風見が朝一でそっちに寄ってから来ることになってるんだが、追加で持ってきてほしいものが倉庫にあるんだ。さすがに風見に倉庫を漁らせるのもあれだし、お前がいたらいいなと思ってた』
「もしかして昨年押収した麻薬取引先一覧の手書きファイルですか?新しいデータが出てきたからと倉庫にしまった」
『あぁ、それだ』
「それでしたら昨日持ってきてありますのですぐに風見さんにお渡し出来ますよ。新しいデータも印刷して一緒にいれてあります」
『……本当に期待を裏切らないな、助かるよ』
耳元から聞こえる柔らかい声に澪の頬がゆるりと緩む。入庁してからずっと降谷は澪の憧れだ。仕事が出来て、厳しくも面倒見の良い人。今でこそ同じ課にはいるものの仕事は離れてしまったが、最初の頃は指導係として付きっきりで面倒を見てもらった。
この人に認められたい、この人の守る日本を一緒に守りたい。それがモチベーションになるのに時間はかからなかった。褒められたことではないが、仕事はきっちり熟すので許してほしい、などと誰に向けるわけでもない言い訳を胸中で呟いたのは何度目だろうか。
携帯片手に一番上の引き出しを開ける。中に入っていた封筒の中身を今一度確かめて、降谷の求める物がきちんと入っていることを確かめてから両面テープでしっかりと封をした。
「では風見さんにお渡ししておきますね」
『頼む。それと纏めてほしい資料なんだが』
新しい付箋に降谷からの言葉を走り書きしていく。
調べてほしい内容、何に使うかの意図。言葉少なに、だが分かりやすく纏められた降谷の指示はこちらも仕事のやり方をイメージしやすい。やはりさすがだなと思う。
仕事の回し方も、指示の出し方も、年上部下の扱い方も。学ぶことがとても多い人だ。一番最後は降谷の威圧感を出すのは澪には無理だと判断したけれど。
剥がした付箋は他のどの付箋よりも上に貼りつけた。
『明日使いたいから今日中ならいつでもいい。午後は閉店までポアロのシフトが入っているから、帰りにでも寄ってもらえると有難いかな』
「分かりました、閉店時間ギリギリでもよろしいですか?」
『勿論構わないが……物を頼んだ僕が言うのもなんだが、今からその時間まで働くのか』
暗にまた無駄に雑務を引き受けているのかと言われたが、苦笑を返すに留めておく。澪のような内勤を得意とする者が重宝されるのは自覚しているし、歳若くして、しかも女の自分がそこそこの立場と仕事を円滑に熟すにはそれなりの無茶と愛想が必要なのだ。
それは降谷も分かっているのか小言が続くことは無かった。なにより課内で一番の無茶をしているのは降谷その人なのだから、もし小言を言われたとしてもブーメランでしかないのだが。
限界がくる前に言えよ、タヌキ親父共に注意するから。そう軽口を叩かれて思わず小さくふき出した。仕事の話が終わり少し態度が砕けた降谷に澪も肩から力が抜ける。
『そういえば、お前は病欠とかしたこと無かったな』
「強い子ですから」
『ははっ。さすが僕仕込みなだけある』
そのまま数分雑談をして電話を切った。はぁ、大きく息をつくとずるずる机に雪崩れ込む。
未だ誰も登庁していなくてよかった。こんな情けない姿を見られなくて済む。少し火照った顔にだらしなく緩む頬。だって、あんな。
(貴方に育ててもらったって思っていいんですね)
自分が育てたと、そう言ってもらえるだけの人間になれたと思っていいのだろうか。降谷の後輩として恥じない人間になれているだろうか。
ぱん、と自分の頬を一発。高速に回り始めた頭で効率の良い仕事の捌き方を計算する。
思ったより早かったな。そう言ってもらえるのを期待して動き出した澪の指はとても軽やかだった。
20180428