「……きっつ」
体温計を手に思わず呟く。
目が覚めた時点で体調が限界なことには気付いた。霞む視界、唾を飲み込むのも辛い程に痛む喉、全身を襲う倦怠感と悪寒に痛む節々。幸い頭はあまり痛くなかった。
這うようにキッチンまで行って水を飲みながら計った体温は38.7℃。ここまで熱を出すのも久し振りだ、この組織に入ってから体調を崩す暇なんて無かったから。
気を緩めたつもりはなかったのだけれど。志保のおかげですぐ治ったと思っていた風邪気味がずっと残っていたのだろうか。
まぁそんなことはどうでもいい。このくらいの熱ならまだ動ける、動けるうちになんとかしなければ。
この部屋には自由に出入りする人間がいるのだ。組織の人間に弱みなんて見せたくない。
(服、と……お金)
少しばかり大きめのバッグに最低限の荷物を詰めていく。昨日仕上げておいた仕事をジンに送り、閉じたパソコンも一緒に放り込む。それと携帯と充電器。
ふらふらしながら家を飛び出し、薬局で薬やゼリーを買い込むと適当に電車に乗った。手に食い込むビニール袋に、買い物は電車を降りてからすればよかったと後悔しながら。
視界が狭い。吐く息はとても熱いのに寒くてたまらない。
30分くらい電車の中でぼうっとして、降りた駅で別の路線に乗り換えた。そこからまたぼうっと外を眺めて、そこそこ栄えていそうなところで降りる。駅名は耳に入らなかった。
改札を出れば背の高い建物が並んでいる。その中にビジネスホテルを見つけて、澪はふらふらとその中へ入っていく。
とりあえず2泊。その間ゆっくり休めば治るだろう。
受付を済ませ部屋に入ると、荷物を並べる気力もなく澪はベッドへとダイブする。とりあえず寝たい。携帯をマナーモードに設定するとそのまま彼女は目を閉じた。
「……ん」
ゆっくりと意識が持ち上がる。見慣れない景色に一瞬慌てたが、そういえばホテルに来ていることを思い出した。
白いシーツから身体を起こす。相変わらず全身が怠いし悪寒が酷い。だがいつ誰が来るか分からない緊張感が無いだけでも随分と気が楽だった。
ビニール袋を漁りゼリー飲料を飲み干す。冷蔵庫で冷やすのを忘れていたが、常温の方が丁度良かった。備え付けのゴミ箱にゴミを投げ捨てると、よくテレビのCMでみる市販の風邪薬を水と共に流し込む。風邪でも絶対休めない貴方に、というブラック丸出しの文句を謳っているものだ。なんとなく効きそうである。
そこまで済ませて一息ついた。パソコンを取り出してメールチェックを済ませる。先程送った仕事にジンは満足してくれたようだった。
携帯の方には、ベルモットから一週間後に手を貸してほしいとの連絡。それに了解の意を返して、もう一通を開いてみると。
『今日は家にいらっしゃらないんですか?』
最近一番時間を共に過ごしている安室からだった。
澪は社交辞令のようなものだと思っていたが、安室は時間があるときは本当に澪に勉強を教えてくれるようになった。いつも言葉巧みな彼はやはりとても話し上手で、また思っていた以上に頭がよく知識が豊富で。
やっと慣れ始めた大学生活を奪われた澪にとって、物事を教わることはすごく楽しかった。ふらりと現れては勉強を教え、料理を作り、世間話をして帰っていく。そんな安室との時間を彼女は気に入っていた。
『仕事で少し。明後日の夜には戻る予定です』
同時に恐れてもいた。組織の人間である安室にはきっと澪は目の上の瘤だろう。年下の女で、役割が近くて、カルーアには気を付けろという噂も聞いている筈。
そのうちバーボンがもっと中枢に食い込もうとするならばまず邪魔になる存在。仲良しこよしの組織ではないから。
それに、もし。もし安室が彼の言葉に乗る色のように、本当は白い人間なのだとしたら。
澪は彼と相容れることなど出来ないのだ。
それでも楽しいと思ってしまった。探られていると分かっていても、本当は敵かもしれなくても。その可能性を改めて組織に報告することもなく。
久しぶりに自分の為に作られた料理を食べた。久しぶりに自分の為に勉強を教えてもらった。それらを与えてくれた人。
分かっている。本当は澪の為じゃない。安室は安室の目的の為にカルーアに近付いているだけ。
(ま、楽しめる間は楽しんどけばいいでしょ……)
頭が重い。少し眠ったとはいえ、無理矢理ここまで来るのに既に身体は限界だったのだ。
携帯の電源を落とす。それから丸2日間、ひたすら澪は眠り続けた。
20180424