白く光る画面とそこに踊る文字たちをついに視界に入れることが出来なくなり、澪は咄嗟に画面を落とすとぎゅっと目を瞑り耐えるように細く息を吐いた。
ばくばくと煩い心臓は身体の限界を訴えている。肩と背中が石のように固いのはいつものこと、内部から叩かれているかのような頭痛は熱く鈍い痛みに変わり、不定期に込み上げる吐き気には一昨日慣れた。一気に呷っていたスムージーや栄養ドリンクの類は胃も喉も受け付けない為、長い時間をかけてちびちびと飲み込む手法は昨日身に付けている。
周りの先輩部下たちは3時間前に倒れた人を最後に全員既に家か仮眠室か医務室で眠っている筈だ。先程資料を受け取りに来た先輩が倒れる前に休めよと言ってくれたが、出ていく際にボソッと「ウルツァイト窒化ホウ素……」と呟いたのはしっかりと耳に届いている。彼に渡したのは来月行われる地方市議会選挙の候補者数名の身辺調査書、どこをどうとっても化学物質の名前は出てこない。つまるところ異常な程頑丈だと言われたのだろうが、某公安エースの先輩のように超合金ゴリラなどと称されるよりは数倍マシだな、などと思考の隅っこで思うくらいには疲れている自覚はあった。
自ら閉ざした視界の中、妙に熱い頭で状況を整理する。あがってきた報告書は全て目を通した、明日が期日の資料は既に纏めてある、上から請われた仕事は残らず片付けた。出すべき指示は殴り書きそれぞれの机に貼ってある。
つまり、帰れる。
「……疲れた」
こぼれた本音は誰に拾われることもなく、足を引き摺るようにして無心で澪は警察庁を後にした。
***
ドアを開けた途端目を合わせたまま動かなくなった澪に、降谷は内心で苦笑をしながらもそっとその手を引いて部屋の中へと促してやった。おかえり、という言葉に返ってくる小さなただいま。
すとん、と表情も力も全てが抜け落ちたかのような彼女は、抵抗することもなく素直に後をついてくる。鞄を受け取り上着を脱がせてその肩を優しく押せば簡単に椅子へと腰を下ろした。
小さく刻んだ野菜をふんだんに入れてじっくりと煮詰めたスープを半分だけよそったスープボウルと、一目惚れしたのだと言っていた木のスプーンを目の前に置く。右手にスプーンを握らせながら食べられるかと問えば、ややあってから緩慢に頷いた澪はゆっくりと掬ったスープを一口含んだ。
数秒止まって、喉がこくりと動く。おいしい、小さく小さく呟かれた言葉に降谷はゆったりと頭を撫でてやる。掬って、また一口。少しずつ栄養が彼女の身体へと沁みていく。
「着替え持っておいで。温まって髪を乾かしたら今日はもう寝よう」
幼子に言い聞かせるように言えばまた素直に頷いた澪の両手を持って立ち上がらせる。寝室へと向かう背中を見送りながら少ない洗い物を手早く終わらせ、箪笥の前で座り込んでいた澪に笑うと自分の分と2人分着替えを抱えて彼女の手を引いた。
***
髪を洗っている降谷を湯船に浸かりながらぼうっと眺める。はい顔洗って、身体洗ってと手のひらに洗顔やボディタオルを渡されて、のろのろと言われるがままに動く間に澪の髪はトリートメント込みでしっかりと洗われタオルで覆われていた。
抱えられたかと思えばゆっくり浸かってなと湯の中にそっとおろされ、瞬いていると降谷が自身の頭から足まで順にガシガシ洗っていく。身体がぽかぽかと温まってきて、全身を血が廻っているのを感じ取れるようになり、帰ってきてから初めて澪の頭が少しばかり正常な働きをし始めた。
零さん、と言葉をこぼすと、丁度頭からシャワーを浴びていた降谷は「ん、ちょっと待って」と返してきたので大人しく口元まで湯に沈む。我ながらタイミングが悪かったな、反省する間も与えずに少し詰めてと言いながら泡を全て流した降谷が湯船に入ってくるので、膝を抱えるようにして後ろ半分を空ければ両脇から伸びてきた褐色の腕に引き寄せられた。
「零さん、ありがとうございます」
「どういたしまして。大したことじゃないよ」
頭の上に顎が乗る。両手が捕まり、指の間をやわやわと揉まれる。
多分この人の顔を見た途端に自分は安心したんだろう、と澪は思う。張りつめていたものがぷつりと切れて、落ちて、それがまた少しずつ繋がっていく感覚。
好きだなぁ。思ったことが素直に口からこぼれて、嬉しそうに笑った降谷が上から覗きこむようにして目元に唇を落としてくる。それがくすぐったくて、嬉しくて、自然と綻んだ頬がとても心地いい。
指から手のひら、腕へとマッサージしながら移動していた降谷の手が首から肩甲骨にかけてを揉み解していく。
「ほんと引くほど硬いんだよな」
「今日ウルツァイト窒化ホウ素って言われました」
「はは、確かにそのくらいの強度はありそうだ」
「零さんだって超合金ゴリラとか言われてますからね」
「おい待て誰だ言ってる奴」
ぽろぽろと会話を交わして、頬が火照ってきたことに気付いた降谷に促されて湯船からあがる。自力で動く気力は戻ったものの思い出したかのように全身が重くなって、結局また甘やかされるままに気付けばソファに身を沈めて丁寧に髪を乾かされていた。
好きだなぁ。もう一度小さく呟く。ドライヤーの音に消されたと思ったが、一定の動きをしていた手が不意にくしゃりと撫でてきたのでもしかしたら聞こえていたのかもしれない。
20180607