※錯綜コントラスト、原作直前くらい(予定)




「横浜?」
「仕事のついでだけど。行ってみたいって言ってたろ」


そんな会話をしたのが数日前。仕事の合間に観光の時間を作ろうとの誘いに喜んだ澪は上機嫌で横浜の街を歩いていた。生憎の曇り空だが、幸い雨は降っていないので寧ろ暑過ぎることもなく丁度いい天気かもしれない。
海を前にはしゃぐ澪の数歩後ろを苦笑しながら降谷は歩く。あまり海の近くに住んだことがない為憧れがあるのだと彼女は言っていたが、思っていた以上にテンションが上がっているらしい。
ここ、みなとみらいは横浜港に面している地域だ。どこを歩いても大抵すぐ海が見える。橋の上を歩きながら水面を覗き込むようにしている彼女に、落ちるぞ、とからかいの言葉をかけてみたが膨れることなく笑顔が返ってきた。なるほど、かなりご機嫌のようだ。
海だ、海、とずっとひとり言を漏らしていたかと思えば今は鼻歌が聞こえてくる。


「!透さん透さん見てください、くらげ!」
「ん?本当だ、かなりいるな」
「くらげだー……くらげですよ!」
「うん、くらげだな」


ふふ、とゆるゆる頬を緩ませる澪はゆらゆらと海の中を漂う白い生命体たちに大層御執心だ。なんだろう、今の彼女は少なくとも20代の女性には見えないくらいに無邪気だ。まるで子供みたいだな、と思う。嫌いではないが。


「そんなに好きだったっけ?」
「んー……人並みだと思ってたんですけど、なんかこう、実物を見たら」
「気に入ったか」
「気に入りました!」


盆の時期に多くなる印象が強いくらげだが、最近は気候が暖かいからかこの時期でも活動が盛んなようだ。ざっと見渡すだけでも片手では足りない数がふよふよと漂っている。アクアリウムなども人気だし、確かに眺めている分には癒されるのかもしれない。
くらげの展示に力を入れている水族館もあるくらいだしな、などと考えていると、いつの間にか足を止めて欄干にしがみついていた澪が満足したのか再び歩き出した。同じように足を止めていた降谷ものんびり足を動かすと、くるりと振り返った彼女が隣に戻ってくる。浮かんでいるのはにこにことした笑顔。


「ご機嫌でなによりだよ。夜は忙しいし、少し早いけど昼食にしようか。ご希望は?」
「赤レンガでパンケーキ!」
「ついでに買い物もってところか」
「はい!」
「ははっ、素直でよろしい」


恐るべきくらげ効果。ここまで素直で無邪気な彼女を見たのは初めてかもしれない。いや、いつだか小動物と触れ合っているときも同じような感じだった。
纏められている髪を崩さないようそっと撫でる。同じ20代の男女がデートスポットとも名高い土地にいて、しかし色恋というよりもこの空気は妹のような、いや、休日の外出にはしゃいでいる娘を見ている父親の心情に近いか。満更でもない自分にも気付いているが。
くるくるとよく笑う澪を見ているのは気分がいい。


「わ、簪屋さんですって。こんなに沢山あるのは初めて見ました」
「へぇ。よく出来てるな」


少し時間がずれているおかげか、そこまで待たずに昼食をとることが出来た。そのままぶらりと歩き、ある1つの店の前で澪の足が止まる。
簪専門店。その名の通り、そこまで広くはないスペースにずらりと並ぶのはどこを見ても簪ばかり。蜻蛉玉から、しゃらりと揺れる飾りから、踏切をモチーフにしたユニークなものまで。ふらふらと店内に引き寄せられていく澪の後を追った降谷も、多種多様で繊細な簪たちに素直に感心した。
訊けば、澪は簪に興味はあるもののあまり使ったことはないのだとか。素敵だとは思うんですけどね、と言いながら店内を眺める澪に気付いた店員が、にこりと愛想のいい笑みとともによろしければご試着もどうぞ、と数本の簪を手に近付いてきた。
このタイプの簪は見た目は綺麗だが水には弱い、こちらは髪が多くても纏まりやすいと、情報量がありつつも圧力を感じさせない話し方に普段はあまり店員と話すことを好まない澪も警戒心が解けたらしい。1本普段使いに何か買ってみたいんですけど、それでしたらこちらかそちらのタイプは如何でしょうか、盛り上がり始めた会話を邪魔することもないかと少し距離を置いた降谷はなんとなく商品棚を眺めていたが、ふと1つの簪に目を留めた。
澪と話し、だが必要なことを伝えたら悩み始めた彼女にごゆっくり、とすぐに離れていった店員に目で合図をする。こちらの意図を汲んだ店員は微笑んで静かに会計をし、丁寧に拭ったそれを包装することなく手渡してくれた。


「澪」
「はい?」


うーん、とうろうろしながら吟味している澪の後ろに立ち、降谷は髪を解いていいかと尋ねる。
え?と一瞬呆けた彼女は、すぐに降谷の手に一本の簪があることに気が付いた。ぱちぱちと瞬くと、少し嬉しそうに笑いながら髪ゴムを解く。
結び癖のついている髪を数回梳き、くるくる束ねて簪を挿す。捻じりながら痛くないか確認するも、否定する澪の顔はわくわくと綻んでいた。
いつの間にか近寄ってきていた店員があら、と少し高い声を出す。すぐさま小さな鏡を取り出して全身鏡の前に立つ澪が後ろ髪も見られるようにしながら、素敵ですね、と笑う。
纏められた髪の間から顔を出す蜻蛉玉。深い海の色をしたそれに乗るのは、ふわりと泳ぐ白いくらげ。


「わ……!」
「どう?」
「とても!とても気に入りました」
「こちらなら装飾もシンプルで服装を選びませんし、錆びない素材なので温泉などでもお使いいただけますよ」
「温泉で簪ってなんだか素敵ですね……練習します」
「よろしければ簪の簡単な挿し方の図解をお付けしますのでご覧ください」
「ありがとうございます!」


出来たらこのままお会計お願いしたいんですけど、という澪に、にこにこと笑いながら既に済んでいることを店員が伝えると、驚いて、瞬いて、こちらを見上げながら頬を上気させて今日一番の笑みを浮かべる。
その笑顔に、寧ろ貰ったのはこちらの方だな、なんてなんともベタなことを考えている自分に降谷は苦笑した。澪の機嫌が気付けば移っていたらしい、思っていたより自分も随分とご機嫌なようだ。
仕事と仕事の合間の数時間、こんな過ごし方も悪くないかもしれない。そわそわと後ろ髪を触っては蜻蛉玉の感触に嬉しそうにする澪を見て、降谷もまた頬を緩めた。




20180626