養護施設で育った彼女は世間一般から見れば恵まれない子供だったのだろう、けれどたくさんの大人と子供に囲まれて過ごした日々は寂しさとは無縁のものだったし、親が分からない身分で戸籍を与えられ無事大学まで卒業出来たことは幸運と呼ぶべきものだと彼女は思っている。
『親がいないから』
そんな風に言われないように我武者羅に努力した分だけ評価を貰えたのは学生時代の甘やかされた時期だけだったのだと、そう思い知ったのは俗にいう社会人になってからだった。
学校という狭い枠組みの中では常に付き纏っていた家族や生い立ちといった柵から解放された一方、代わりに降りかかってきたのは女のくせに、若いくせにという新たな呪縛。
仕事をしなければ使えないと評価され、しかし全力で取り組んでみれば調子に乗っていると陰口をたたかれる。正しさよりも権力が蔓延る世界。
適度に手を抜くということがどうしても苦手だった彼女は、なんとかコミュニケーションで謙り相手を持ち上げることでバランスを取ってきた。精神を擦り減らす代わりに手に入れた都合のいい奴というポジションは、理不尽な社会で上手く生き残るには丁度良かったのだ。


週始めでも週末でもない、中途半端な平日の帰り道。
辿り着いたアパートで、自分の部屋のドアを開けようと鍵を取りだしたときにふと漂ってきた夕飯の香り。ほっこりとするそれは出汁の効いた肉じゃがのものだろう。ふわりと鼻を掠めていく。
それに気付いたとき、彼女はなんとも言えない気持ちに襲われた。温かな肉じゃがを食べた記憶など彼女には無いし、昔に戻りたいという懐かしさではない。言うなればそれは憧れというものだろう。
外で思いきり遊んで、暗くなる前に走って家まで帰って。ただいま、と大きな声で言いながらドアを開ければ迎えてくれる夕飯の香りとおかえりという声。


疲れている自覚はあった。
帰りたい、と思った。一体どこに帰りたいというのか、育ててもらった施設には恩を感じてはいても昔に戻りたいかと問われれば彼女の返答は否で。しかし施設以外に彼女の故郷など無い。それでも思った、帰りたいと。
温かくて、柔らかくて、安心できて。きっと望んでいるのはそんな場所で、でも彼女には見当もつかない。
小さくかぶりを振る。明日も仕事なのだ、早くお風呂に入って寝てしまおう。ゆっくり寝て、たまには朝と昼をコンビニに頼ってしまってもいい。その分朝の目覚ましを遅くして。
そんなことを考えながら鍵を開け自分の部屋へと続く扉を開けた。


……筈だった。


「……誰だ」
「っ」


一歩踏み出した先はフローリングだった。
おかしい、まだ靴も脱いでいないのに。確かに借りている部屋は全てフローリングだが、それは玄関で靴を脱いだ先の話だ。並んでいる筈のサンダルとスニーカーも見当たらない。
それだけではない。掴んでいた筈のドアノブも無いし、脱いだ覚えのないパンプスは少し離れたところに転がっている。着ていた服はゴワゴワのタオルに包まれたかのように肌に纏わりついていて、手も足も布の塊から外に出ていない気がする。
なにより。
目の前に1人の男性。その膝により下半身を、左手で右腕を。そして右腕で左腕と首元を押さえつけられていた。


(なに……だれ……こわい……!)


金色の髪と褐色の肌を持つその男に見覚えはない。何より彼女は1人暮らしだ、部屋の中に誰かがいる筈などなく。全身が恐怖で支配される。
カタカタと震えだす身体はしかし少しも身動きが出来ないほどに押さえられていて息が苦しい。ぼやけだした視界にはこちらを睨みつける青灰色の瞳が映り、訳が分からないままに決壊した感情が涙となってぼろぼろ溢れだした。
見知らぬ男、動かぬ身体。ひ、と引き攣った喉が何度も息を吸おうとするが上手く行かず、苦しさから余計に涙が溢れてくる。
怖い、苦しい、怖い。震えだけが酷くなっていく。


「……君は誰だ?」


不意に、幾分か柔らかくなった声が耳に届いた。
喉元の拘束が弱まる。一気に肺に入り込んできた空気に咳き込んだ彼女は、その時幼くなっている自分の声に違和感を抱ける程の余裕は無かった。
相変わらず身体は動かない。自分を押さえつけている見知らぬ男。圧倒的な力の差に全細胞が生命の危機を叫んでいる。


「ころ、さないで」
「……」
「おかね、なら、ぜんぶあげます。けいさつにも、いいません。おねがい、ころさないで、でてって」


横隔膜の痙攣は止まらず、つっかえつっかえになりながら何度も何度も訴える。殺さないで、出て行って。
そんな彼女にとうとう男の雰囲気は威圧から困惑に変わっていくが、それに気付くことなくか細い声で懇願しながら泣き続ける彼女はぷつりと途切れるように意識を落とした。




20190802