妙に頭がすっきりしていた。
恐らく薬が投与されたのだろう、腹の痛みもマシになっているし発熱故の全身の怠さも軽い。
掬い上げられた意識の先、霞む視界でまず把握出来たのは部屋の中に人の気配が増えていないことだった。意外ではなかった。警察だと名乗った男の声には嘘の色は乗っていなかったから。
ただ、律儀だなと思った。義理堅いとでも言えばいいだろうか。こんな小娘1人どうとでも出来るだろうに、真っ直ぐに向き合ってくるところが。
大人の世界で正しいことを通そうとすることがどれだけ難しいか澪は分かっている。だからこそ対等に話そうとする安室がどこまでも眩しい。


(……私は、カルーア)


冷静に、冷酷になれ。賢く気高く、そして生に執着しろ。
手に力を入れる。僅かしか動かなかったがそれでも構わなかった。せっかく甘やかされたのだ、盛大に甘えるのが礼儀というものだろう。叫ぶ心も騒ぐ心臓も無視をして、ぼろぼろになったカルーアの仮面を再び被る。


「……水、いただけますか」
「あぁ。ちょっと待ってくれ」


カラカラの喉からは情けない声しか出なかったが、初めて意志疎通しようとした澪に安室は小さく笑みを浮かべ水を与えてくれた。
丁寧に与えられたそれは充分に喉を潤していく。冷たさが頭を醒ましていくようだった。徐々に思考がクリアになる。
落ち着いてこれから話すべきことを考える。安室は静かにこちらの言葉を待っていてくれるようだ。
狡くなれ。澪は己に言い聞かせた。


「取引を、しましょう。……このまま、カルーアがいなくなれば……ジンはバーボンを疑う」


少し言葉を発するだけでも疲れる。それでもこちらが喋る意思を見せれば安室は聞く姿勢をとってくれた為、途切れ途切れに澪は続けた。カルーアを見逃し、今まで通り組織で活動をさせろと。
代わりに安室に与えるメリットは2つ。1つはカルーアが全面的に安室の協力者となること。伊達に長く組織で活動しているわけではないカルーアはジンからの信頼をバーボンより得ている。ノックとしてバレないようフォローするし、情報提供も厭わない。今までよりも組織内で動きやすくなることは間違いないだろう。
2つめは。一瞬戸惑うように言葉を飲み込んだ澪は口を開く。曰く。
警察の不利益になるような事実を公にしないこと。
朝月澪は世間から見れば哀れな被害者の一面を持っている。そんな彼女を潜入捜査官、つまりは警察が見つけていたにも関わらず保護しなかったと話が出回ればバッシングは避けられないだろう。現時点で安室に澪を保護する選択肢は無い筈だ。単純に保護だけするにはカルーアは重要参考人過ぎる。
捕えるか、泳がすか。それなら泳がせてほしい。カルーアにはそれだけの価値はある。


「なるほど。それで、君からの要求は今まで通りの生活か」
「はい。……組織が滅びた暁には、罪を償います。協力者として、情状酌量を望みます」


ふむ、と考え込む安室をただ見つめる。一気に喋って非常に疲れた。
いつの間にか指先は冷たくなっていて、目を逸らしたくて仕方なくて、それら全てに気付かないフリをする。安室が口を開くまでのたった10秒か20秒くらいの時間が果てしなく長いもののように思えた。


「分かった、取引成立だ。……証明は必要かな?」
「……いえ。ありがとうございます」


安室の言葉に嘘は無い。どこまでも眩しい白、正義の色。
澪がこの場だけ切り抜けてジンに報告するとは考えないのだろうか、など色々思うところはあるものの口にはしない。正直頭に心が全く追い付いていなかった。
果たして上手くいった、のだろうか。これは自分が望んだ結果か。よく分からない。
ぽん、と安室の手が頭に乗る。


「ここからはオフレコで頼むよ」
「……?」


混乱している澪の視界の先で安室が下手くそな苦笑をした。珍しいこともあるものだ。
そっと撫でてくる手は優しい。


「助けられなくてすまない」
「……」
「今までも、今この時も。怖かったろう、よく頑張ったな」
「え……?」


今この人は何と言った?
頑張った?自分は頑張ったのか、頑張れたのか。決して真っ当とは言えない生き方で、今だって警察相手に喧嘩を売って。褒められたことではない。そんなのずっと知っていた。
胸を張ることも出来ない、自信を持つことも出来ない。考えないようにしていた、逃げていた。間違っているのだ、こんな生き方。頑張ってなんていない。褒められる権利なんて無い。


それでも安室は優しく頭を撫でてくる。頑張ったなと、優しい言葉と共に。


「生きたいと君は言ったな。きっとそれは君の願いそのものだ。でもそれだけじゃない。君は、普通に生きたいんだろう」
「っ!」


澪は思わず目を見開く。
生きたい。それは彼女の唯一の願い。死にたくない、生きたい。その思いだけで今日まで生きてきた。
だけど、そう、本当は。友人と笑いあって、勉強して、バイトして、家族にただいまと言っておかえりと言って。あのありふれた、ごく普通の日常が忘れられなくて。
ずっと、忘れられなくて。


「そんな君がカルーアとして生きるのも、今僕と取引したのも、本当は嫌で怖くて堪らなかった筈だ。だって君は普通の女の子なんだから」
「っ、……ふっ……ぅ、……」
「よく頑張ったな。君は立派だ」


「ぅっ、ひっく……う、わぁぁぁぁん!!」


もう無理だった。
次から次へと涙が溢れて止まらない。苦しい、痛い、熱い。ぼたぼたと流れる水滴が頬を、耳を、枕を濡らしていく。
怖かった。嫌だった。だって澪はただの大学生だったのだ。犯罪なんて犯したくなかった、人を傷付けたくなんてなかった。
傷付けられたくなんて、なかった。


ただただひたすらに泣き叫ぶ。その間、安室はずっと澪の頭を撫でていた。




20191017