安室が盆に乗せていたのは土鍋に入ったおじやだった。温め直されて湯気のたつそれはとてもいい香りをさせているのだが、先程までは気付く余裕すら無かったらしいということに澪は気付く。
茶碗に盛られたものを恐る恐る受け取る。その際に捲れた袖から覗いた手首には赤黒い痣が出来ていて、それを見て眉を下げた安室はきっと優しい人なのだろう。彼は澪自身未だ信じられていない現象を飲み込み、謝罪と身の安全を保障するという言葉をくれて、温かい食事すらも用意してくれている。きっと、なんてものではない。優しい人だ。
正直最初の恐怖とのギャップが激しすぎて頭も身体もついていっていないが、澪が目を覚ましてからこちら、安室は柔らかな言動に努めている。澪を気遣っていることが分かるその態度に、いつまでも怯えようとは思わなかった。
小さな手に合わせて出してくれたのだろうプラスチックのスプーンですくって、ふうふうと息をかけ一口。優しい味が口いっぱいに広がる。


「食べにくくないかい?」
「大丈夫、です。……美味しいです、すごく」
「それはよかった」


ほっと息をつく彼はやはり優しい。
布団の上で食事をするのはと遠慮したのだが、疲れているだろうし身体を痛めさせてしまったからとやんわり押し切られた澪は未だ布団から出ていなかった。正直あまり移動したい気分ではなかったから有難い。大きな枕に背中を支えられ、一口、また一口とおじやを口に運ぶ。
そういえばすっかり忘れていたが、そもそも仕事帰りでお腹が空いていた筈なのだ。空っぽの胃は温かい食事を受け入れていく。


そんな澪の様子を見ていた安室は、不意に襖の向こうへ姿を消したかと思うと片手に小鉢を持って戻ってきた。


「もし食べれそうならこっちもどうかな。おじやだけだと栄養バランスも悪いし」
「え」


差し出されたそれには、ほくほくと美味しそうなじゃがいも、彩り鮮やかな人参と絹さや、味の染みていそうな玉ねぎに牛肉。ふんわりと香ってくる味醂と醤油の匂い。
帰りたいと、思った香り。


「いい、んですか」
「もちろん。どうぞ」


にこりとこちらを安心させるように笑った安室にそっとおじやの器とスプーンをとられ、代わりに小鉢と割り箸を渡される。
大人の手には小さく感じるであろう安っぽい割り箸はなんとか澪にも扱えそうだった。生憎子供用の箸が無いんだ、と安室は申し訳なさそうに言うが、ここまで気を配ってもらって感謝以外を抱ける程厚顔無恥になれる筈がない。今出来得る限りはっきりと声に出して礼を告げると、彼はどういたしましてとまた笑った。


おじやの時よりも恐る恐る口に運ぶ。熱そうだからでも、箸が扱い辛いからでもない。
小さく解したじゃがいもと牛肉。甘い、出汁の香り。


咀嚼はだんだんとゆっくりになり、こくんと喉が動いたと同時、一粒涙が落ちた。


「……口に合ったかな?」
「っ、美味、し……っ!」


ぽろりと落ちた雫は次から次へと零れていき、とうとう澪はぼろぼろ泣き出した。
震える手から落ちる前に小鉢と箸は安室によって回収され、空いた手でなんとか止めようと目を押さえてみても流れてくる涙は止まらない。
肩が跳ねる、呼吸が苦しくなる。何が悲しいのか分からなくて、そもそも悲しいのかすら分からなくて、ただただ胸の奥のぎゅっとした痛みに耐えたくて歯を噛み締めてみても消えてくれなくて。
布団を汚しちゃ駄目だ。ふとそんなことを思い、身体をぎゅっと丸めた。膝を抱えて顔を押し付ければ涙は服が吸いこんでくれる。
目の奥が熱い。頭がガンガンする。


背中に温かな手が乗った。
びくりと澪の身体が跳ねるが、それ以上拒絶が無い事を確認するとその手はゆっくり背中を撫でる。
ゆっくり、ゆっくり。落ち着かせるように、温度を分け与えるように。小さな背中にはその手は何よりも大きなものに思えた。
もう片方の手が頭を撫でる。丁寧に髪を撫でていくその手は肩の震えが小さくなると同時に頭を離れていったが、咄嗟にその手を小さな二つの手が掴まえた。弱い力で、しかし確かにぎゅっと握られ、きょとんとした安室は小さく笑みを零すとその小さな頭を己の肩へと引き寄せた。
頭を撫で、背中を一定のリズムで叩く。


「怖かったね、怖がらせてごめん。もう大丈夫だから」


ふるふると頭が振られ、縋るように両手が背中へ回される。
大丈夫、大丈夫。小さく歌うように紡がれる安室の言葉を聞きながら、澪はただひたすらに泣き続けた。




20191206