いいないいな にんげんっていいな
 部屋の隅っこに放置された、ミの音が壊れて出なくなったおもちゃのピアノ。たった2オクターブしかないそれを好んで遊ぶ子供は他にいなくて、いつもひとり占めしながら小さく小さく内緒ごとのように奏でるのが澪は好きだった。
 おいしいおやつが用意されていたことはなく、ただいまに返ってくるのは無関心。どんなに寒くても所々破けた薄っぺらい布団1枚の中でひたすら震える、そんな日々が少女の日常だった。温かいご飯も、おかえりの笑顔も、一緒に入るお風呂も。なにひとつ知らない。
 同じような境遇の子供が集まるそこで暮らす彼女は、幼いながらに自身の環境を正しく理解していた。なるべく大人の機嫌を損ねないように、子供たちの仲間外れにならないように。でもそれが中々難しくて。
 夜空に輝く月のような銀色の髪、暖かな春を思わせる珊瑚色の瞳。明らかに異国の血が流れる彼女の肌は陶器のように白く、小さく華奢な身体はまさにお人形のような可愛らしさという言葉をそのまま体現したものだった。
 人は異物を排除しようとする。良くも悪くも素直な子供なら尚更。

「お前はキモチワルイから仲間になんか入れてやらねーよ!」
「朝月さんはいつも大人しくていい子ね。先生助かるわ」

 学校という場所はあまり居心地のいいものではなくて、でも施設に帰るよりは少しだけマシ。そんな毎日。
 もっと辛い人がいるとか、出生不明の中では恵まれた方だとか、そんな殊勝なことはこれっぽっちも思えなかったけれど。しかしながら、自分の人生をこんなものだと決めつけるには彼女は些か負けず嫌いだった。
 今はまだ寒くて寂しくて、部屋の片隅のピアノだけが友達で。だけどもっと大きくなったら絶対に幸せになってやるんだ。たくさん勉強して、自分の力でなんでも出来るようになって、そうしたら。
 まだ両手で数えられるようになったばかりの僅かな齢で、それでも少女は歯を食いしばった。大人の顔色を窺い、子供の理不尽に立ち向かい、日々を懸命に生きていた。

 そんな彼女を嘲笑うかのように、日常は簡単に崩れ去った。

 建物の中に土足で踏み込んでくる真っ黒い服を着た男たち。血を流して倒れているのは最近入ってきた若い職員で、一ヵ所に集められた子供たちは泣き叫んだ者から順番に事切れている。
 施設内を粗方見回ったのだろう。戻ってきた男たちが怒鳴ったり転がるニンゲンを蹴飛ばしたりしているのを、澪はどこか他人事のように眺めていた。慌てふためく大人たちと、泣く気力もない子供たちと、一面に広がる赤。まるでテレビの向こう側をみているみたいだ。
 あぁ、でもテレビとは違う。だってこんなとき、物語の中だったら助けてくれるヒーローが現れるのに。

「何も成果が挙げられないならこれ以上生かしとくメリットは無ェな?」
「ヒッ! ま、まってください、それは、」
「あァ? じゃぁなんだ、何かしらイイ報告があるんだろうな?」
「いや、その、それは……!」

 チャキ、と。聞こえた音は画面越しに耳にしていたものよりよっぽど小さい。あれは拳銃を構えたことを分かりやすくする為の演出なのだろう。フィクションと現実では異なることも結構あると図書室の本に書いてあった。
 それでも、今耳に届いたその音は何よりも重く聞こえた。
 黒い筒を突き付けられた職員はガチガチと歯を震わせ、へたり込むことすら出来ずに恐怖に目を見開いている。いつも子供たちに与えていた威圧感は欠片も感じられない。
 それをぼうっと見ている澪は、ただ指先が氷のように冷たくなっていることだけを自覚していた。

「こ、この子を……!!」
「……え?」

 突如腕を引っ張られ、澪の身体が黒い筒を持つ男の前へと突き出された。
 自分の腕を掴むそれを辿ると、血の気を失った職員の顔。突然非日常の舞台へと立たされたことに心臓がドクリと大きく音をたてる。小さな少女の腕を掴むには強すぎる力で握られた左腕はきっとものすごく痛む筈だが、そんなことは全く気にならなくて。
 金は用意出来ない、代わりにこいつを、この年頃の女なら何とでも役に立つはずだ。
 震える口から必死に紡がれる言葉たちは、自分を傷つけるためにある言葉たちだ。それだけは澪にも分かった。職員が、自身のみが助かるためだけに必死に紡いている言葉。

「これだけの見目だ、使いようなんて、」
「話にならねぇな」

 耳をつんざくような音。
 発砲音。反射で肩が大きく揺れるのとほとんど同時、ぴちゃ、と生温かい液体が澪の頬を濡らした。
 何か大きなものが倒れる鈍い音、僅かに引っ張られた後に腕の拘束が外れる。恐る恐る頬に持っていった指先についたのは、冷え切った指には熱くすら感じる血液。さっきまで生きた人間の体内を巡っていたもの。

「、あ……」

 恐る恐る視線を下げると、先程まで澪の腕を掴んでいた筈の職員がぴくりともせずに横たわっていた。
 恐怖に見開かれた瞳には生気が無い。唯一動きを見せているものといえば額から溢れ出る血液くらいで、どんどん大きく広がるそれは彼の死を表していた。
 黒い筒が、簡単に命を奪った。拡がる赤はこの職員だけのものではない。床に転がっているニンゲンたちは、大きいモノも小さいモノも、ついさっきまで同じように生きていたのだ。
 指先がどんどん冷えていく。ドクドクと心臓の音が脳内に響く。

「……さて」

 鋭い視線と、今度は自分へと向けられる重い音。ゆっくりと顔を上げれば、悪人という言葉をそのまま具現化したかのような男がこちらを見下ろしていた。
 どうしてこうなったのだろう。冷たいご飯も、寒い夜も、敵意も無関心も。今だけ我慢して、早く自分の力で生きていけるようになろうと、そう思っていたのに。
 視界いっぱいの赤、目の前の黒。歯を食いしばってぐっと両手を握りしめる。

(負けてたまるか)

 私は、生きるのだ

「私は貴方たちの役に立てます」

 震える口から出た声は思った以上に情けなかったが、じっと見つめた目の前の男がすぐに引き金を引くことはなかった。
 少しだけ上げられた口角は話してみろということか。どんな気まぐれかは知らないが聞く気はあるらしい。
 間違えたら殺される。
 考えろ、考えろ。カラカラに乾いた唇を噛みしめて、澪は慎重に言葉を選んだ。




20220217