澪は耳の良い子供だった。
極小さな音も拾えるとか、絶対音感を持っているとかいう意味ではない。もちろんどんなに潜められた小声の会話も聞き取れたし、日常に音階が溢れていて少し不便に感じることすらあるタイプの人間だ。だが、そんなものはオマケに過ぎなかった。
人の声というものは一定ではない。調子を左右するものは環境要因だったり、はたまた体調のような個人的要因だったり。例えば喜楽の感情によって明るくなったり、焦りや不安のようなマイナスの感情によって震えたり。その些細な揺れを澪の耳は完璧に捉えることが出来た。
嘘をつかれたとき、気付かなかったことがない。
怒っている、嘘をついている、喜んでいる。いくら顔に出ていなくとも声を聞くことでその人の心情を知ることが出来る。彼女にとっては物心ついた頃からそれが普通だった。
大人が困っていれば手伝いを申し出て、機嫌が良ければ同調して笑う。恐ろしく空気を読む子供だった。大人の顔色をとても上手に窺うのを周囲はその環境故と思っていたが、実際は環境故の習慣にこの耳が拍車をかけていた。
物心ついたときからの『普通』が他の人にとっては違うのだと分かるまでは少しばかり苦労したものだ。子供たちは何か察するものがあったのかキモチワルイと遠巻きにして、時には施設の大人たちも気味の悪いものを見る目をした。それで気付いたのだ。きっとこの耳はおかしいと。
だからといって何をどうするわけでもなく、今までなんとか生きてきた。だからこの耳のことを正確に知る者はいない。澪自身もよく分かっていないと言ってしまってもいい。
しかし、使い方によってはこれはとても便利で、そしてとても危険なものだ。それを澪はよく分かっていた。
***
「今の話を証明します。貴方の名前はなんですか?」
「……ウォッカだ」
「嘘です。ただ、全く知らない人の名前じゃない……言い慣れている、貴方がいつも呼んでいる人の名前だと思います」
「成程」
額に突きつけられていた銃口が下ろされる。
これは勝った、のだろうか。力が抜けそうになる膝を叱咤して踏ん張る。ここで気を抜くわけにはいかない。
「私は死にたくありません。命と引き換えに、貴方と、貴方が従う全てのものに従うと誓います。誰も知らないこの力は便利な筈です」
「……」
「私を生かしてください。役に立ってみせます」
「……。悪くねェな」
ニヤリと極悪面が笑った。
施設には火が放たれ、澪以外は全て炎に包まれた。大人も子供も、生きていた者も死んでいた者も全て。それに何かを感じられるほど今の澪には未練も余裕もなかった。
乗れ、と一言だけ投げられた言葉に従い乗った車で、どことも分からぬ道を延々と揺られながら男の話に耳を傾ける。ここは元々この男たちのものだったらしい。求めるものが全く得られないので潰すために来たがイイ拾い物をした、と上機嫌に男は笑う。
「テメェが行方不明のまま捜索されても面倒だ。まぁあんな施設のガキ一匹、気にもしねぇとは思うがな……念には念をだ。死んだことになってもらう」
「わかりました。私はどうすればいいですか?」
「今後のことは追々伝える。とりあえず中国に飛べ、足はこっちで用意する」
「中国?」
攫われた子供は臓器売買ビジネスに巻き込まれて死んだとでもどこかから情報が洩れればいい。
不幸にも賢い少女は男の言うことを理解出来てしまう。少しばかり眉を顰めれば、それを感じ取った男は面白そうに喉の奥で低く笑った。
「死にませんよね?」
「運が良ければな」
「約束が違います」
「殺しちゃいねェ」
「……」
折角の資金源は使わなきゃな、とまた笑う男はやはり機嫌がいいらしい。
本当に、どこぞの三流テレビドラマだろうか。それでも澪には従う以外の選択肢は残っていない。そうでなければ今ここで頭に風穴が開くだけだ。
せっかく生き延びたのにこんなところで死ぬわけにはいかない。男に澪を殺す気がないことは声を聴けば分かる。大丈夫、自分はまだ負けない。
十数時間後、腹に激痛を抱えながらも彼女は再び目を覚ますことになる。
こうして朝月澪は死んでいった。
20220217