「アリス、仕事よ」
「……白ウサギも眠ってますよ……時計の針も読めなくなりましたか」
「あら、ご機嫌ナナメね」
「おかげ様で」
午前2時40分。誰もが非常識だと口を揃えて言うだろう時間に無理やり叩き起こされ、澪の機嫌はそれはそれはよろしくなかった。
腹に大きな傷を作ってから数年。自身の命と引き換えに入った組織で、彼女はそれは強かに生き残っていた。平和に生きてきたひ弱な自分には攻撃手段も何も持っていないからと、耳のことを他言しないことと基本裏方で動くことの2つを取り付け、下手に狙われたり恨みを買うリスクを下げた。その上で己が出来ることで上手く立ち回り、賢さと強かさと多大なる運を味方につけ今まで生き抜いた。
幹部には酒の名前からとったコードネームが与えられるこの組織で、早々にまさかのノンアルコールを与えられたときは色々と思うところはあったが。特殊な立場故かはたまた甘ちゃんだと嗤われているのか、それでも立ち位置さえ確立すれば何でも構わなかった。
自分は生きるのだ。その為だったら、容姿も、自分だけに聴こえる音も、何だって利用してやる。
ただ、それとこれとはまた話が別である。澪は不機嫌さを隠しもせずに突然の訪問者を睨みつけた。
痛む頭に気怠い身体。体調不良ではない、単にやっと寝付いたところを邪魔されたことに全身が不満を訴えているだけだ。布団の中は温かいものの手足はまだ冷えたままだった。
そこそこのセキュリティのマンションだとはいえ、真っ黒な組織の幹部ともなればこれくらいのセキュリティはあってないものらしい。ついでに時間感覚と常識も。何が気に入らないって、勝手に入られることが最早日常茶飯事なことだ。そのうち自衛の手段を手に入れたいと思っている。
澪の態度など痛くも痒くもないと言いたげに非常識な訪問者、ベルモットはくすりと笑った。
「怒った貴女も可愛らしいわね」
「それはそうでしょう、私ほどの愛らしさを持つ人類はそうそういませんから」
「そこまで口が回るなら目は覚めたみたいね」
「お蔭さまで」
童話の中の少女とは違い、無邪気さの欠片もないアリスの仮面を被った澪は溜息を吐きつつ応じる。怯えるだけではやっていけない組織の中で十数年、すっかり図太くなったものだ。
「私の貴重な睡眠を邪魔してまで会わせたいなら、よっぽどのお方なんでしょうね?」
澪の言葉に、ベルモットは笑みを深めた。
目が覚めたときから、ベルモットの他にもう1人気配があることにはさすがに気付いていた。一応こんな組織に属している身だ、ドアの外に人が立てば目は覚める。侵入を拒む手段を持たないだけで。
まぁベルモットが連れてくるくらいだから特に危険はないのだろう、と欠伸を嚙み殺す澪を横目に、腕を組んだベルモットの入りなさいという言葉と共に現れたのは綺麗な男だった。
褐色の肌に太陽を思わせる明るい髪、海をはめ込んだかのような瞳。整った顔立ちと細身にも鍛えられているのが分かる長身。
ジンが悪人を具現化したような男だとするならば。
「10人いたら12人振り返るイケメンですね」
「お褒めにあずかり光栄です、愛らしいアリス。僕は安室透といいます、以後お見知りおきを」
にっこりと人好きのする笑顔を浮かべながら紡がれた言葉に、澪は数瞬言葉を飲み込んだ。それを久方ぶりに向けられた紳士的な態度に感動したと雑に誤魔化せば、特に気にした風もなくベルモットが口を開く。
「この男、もうすぐコードネームを与えられるのよ。顔合わせついでに一仕事一緒に熟してきてちょうだい」
「へぇ、紳士的な人が幹部に増えるなら大歓迎ですけど。その仕事は今からですか?」
「いいえ? そうね、昼過ぎには出てもらおうかしら」
「私まだ寝れましたよね」
なんでもベルモットが仕事終わりにそのまま安室を引っ張ってきたそうだ、全ては大女優様の都合ということか。全くもって知ったことではない。
しかし足に使っているということは、ベルモットはそこそこ安室のことを気に入っているらしい。だからこそ直々にこの仕事を持ってきたのだろう。
一仕事。つまるところ、安室が白か黒か見極めろということだ。アリスのネズミ捕りの役割は組織の中で大きい。
「話は分かりました、朝になったら改めて連絡ください。安室さん、これ私の番号です」
あ、あと鍵かけといてください。メモ用紙にペンを走らせ安室に押し付けると、帰れと言わんばかりに手をひらひらと振る。いい加減寝かせてほしかった。
暇潰しを兼ねていたのだろう嫌がらせには充分に満足したらしいベルモットは特に何を言うでもなくにんまりと口元を上げると踵を返し、安室も苦笑を浮かべると軽く頭を下げその背を追っていく。
再び静寂が戻る室内。冷えた身体をさっさと布団の中に戻し、手足を擦り合わせるようにして丸くなる。僅かに残っていた温かさがじんわりと移ってきて、元々重かった瞼は簡単に落ちてきた。
(安室透……)
それが彼の名前なのは本当。でも本名ではない。
それ自体は珍しいことではない。この世界では偽名を使っている人などごまんといるし。あそこまで使い慣れているのは珍しいかもしれないけれど。
それよりも彼の言葉に乗っていた、とても真っ直ぐで綺麗な音。その眩しさを思い出し、澪の瞼がふるりと震える。
(もしかしたら、)
とろんと意識が微睡んでいく。考えるのは起きてからにしよう、変に疲れが残るのは良くない。
ぎゅっと膝を抱えて目を閉じる。指先の冷たさに身体を小さく折りたたんだ。
20220227