部屋にかかるカーテンはどれも分厚い。だから電気をつけなければ昼間でも薄暗いままだ。
 ベランダに面する大きな窓があるその部屋で、カーテンを閉め切った薄暗い空間の中澪はただひたすらに指を動かしていた。白と黒のコントラストの上をあちらへこちらへと指が躍る。
 響き渡るグランドピアノの音。この時間が澪は好きだ。何も考えず、思うがまま好きなように音を奏でる。
 窓の外では朝がゆっくりと世界を包み始めているだろう。この部屋の中では分からないけれど。光も音も遮られた中、響くのは澪の指によって生まれるピアノの音だけ。
 つい1時間ほど前に目を覚ました彼女は、頭の奥に鈍い痛みを感じながら渋々身体を起こした。夜中変な時間に起こされたが故に気分はすこぶるよろしくなかったが、もう一眠りするには安室との約束の時間を曖昧にし過ぎた。少しばかり後悔している。
 ゆっくりと目と身体を覚ますように緩やかに穏やかに流れていた音楽は、少しずつ明るく華やかになり、今では激しく空気を震わせていた。ベルモットへの苛立ちと不満が表れているわけではない、決して。

(……思ったより早かったですね)

 人の気配を感じた澪は一瞬だけ指を止めた。いくら防音が施されているとはいえ、さすがに扉を開ければ音は漏れてしまう。まだ常識的な時間とはいえない。
 扉が閉まると同時にまた鍵盤に指を躍らせる。お客さんも来たことだしそろそろ止めることにしよう、あと5分くらいは待たせてしまうがそれくらいは許容してほしい。
 打ち寄せる波が引いていくように、落ち着いた音の繋がりが少しずつ途切れていく。最後の一音を鳴らし終わると同時に一人分の拍手の音が響いた。

「おはようございます。朝から素敵なものを聴かせていただきました」
「おはようございます。お待たせしました安室さん」

 にっこりと。拍手と共に賛辞を口にしたのは、やはり人好きのする笑顔を浮かべた安室だった。
 確かに朝になったら連絡をくれと伝えたが、押し掛けていいと言った覚えはないのだが。何のための電話番号だろうか。言ったところで通じるとは思わないから言わないけれど。
 一応不本意だと伝えるために睨みつけてはみたものの、肩を竦められただけだった。イケメンがやると非常に絵になる。

「一応弁明しておきますが、ベルモットの命令なんですよ。朝食でも振舞って親交を深めろと」
「勝手に入ってくる時点で理由がなんであろうと癇に障ります」
「ですよね、すみません」

 ベルモットの差し金か。大体予想はついていたが。
 少しも悪いと思っていなさそうな謝罪に溜息をつく。このタイプには何を言っても無駄だろう。ジンあたりとはさぞ相性が悪そうだ。

「それにしても珍しいですね、楽器防音物件ですか」
「この子を好きに弾きたいので」

 グランドピアノの端を撫でる。部屋の中心で存在感を放つこれは1つも音が欠けることなく、両腕いっぱい広がるほどに鍵盤が続いている。感情のままに好きなように、思った通りのメロディーを満足いくまで奏でることが出来る。
 つい先ほどまで血が巡っていた指先がだんだんと体温を失い冷えていく。両手をぎゅっと握り込むと澪はピアノに背を向けた。

「ピアノに触らなければ好きに過ごしていてください。着替えてきます」
「僕が言うのもなんですけど順応早すぎません? もう少し警戒されるものかと思っていたのですが」
「本当に貴方の台詞ではないですね?」
「はは」

 ベルモットの命令なのは本当。侵入したことに対して悪いとは微塵も思っていない。警戒されないことに対して顔には出していないが驚くと共に警戒している。
 彼が紡ぐ音たちは安室の感情を鮮やかに伝えてきた。それらを耳に入れて、澪は少しだけ目を伏せる。
 敵意は感じるものの、澪個人を今すぐどうこうしようとする意思は感じない。どちらかと言えば取り入ろうとされていると考えるのが正解だろうか。
 それと、先程の賛辞は本当の言葉だった。

「……殺意は無さそうですからね」

 小さく告げた言葉に安室が少しばかり目を見開いたが、それに構うことなく寝室へと足を向けた。




2022.04.18