寝間着のままだった服を着替えて、ついでにそのまま洗面所で身支度も整える。特に急いだりはしない、むしろいつもより無駄にしっかり保湿してみたりして。そのくらいは許されるだろう。
 ふぅ、と一息ついてリビングへと向かえば、扉を開ける前からとてもいい香りが鼻をくすぐった。食欲を誘う香りというものにこれほどまでぴったりと当てはまるものはあるだろうか、反語。そのくらい素直に美味しそうだと思えた。
 くぅ、と小さく胃が訴える。珍しいこともあるものだ、と澪は自身の腹を擦りながらリビングへの扉を開いた。

「丁度よかった。朝ごはん作ったんです、よろしければ如何ですか」
「……」
「どうしました?」

 振り返った安室の言葉通り、テーブルの上には朝食がずらりと並べられていた。
 温かそうな味噌汁、鮮やかな色の卵焼きを始め副菜が幾つかに、冷蔵庫に入れた覚えのない鮭。米を炊く時間は無かった筈だから冷凍していたものだろうか。
 ベルモットの言葉を受けて律儀に朝食を作ったのか、わざわざ材料まで持参して。そう冷静に考える一方、頭のどこかでガツンと殴られたかのような衝撃を受けていた。
 彼女にとって、温かな食事が用意されている状況は未知のものだった。

「美味しそうでびっくりしました。安室さん料理お上手ですね」
「お褒めいただき光栄です。貴女も自炊、はする……みたいですが」
「放っておいてください」

 澪にとって食事とは生きるための術だ。必要な栄養素をバランスよく摂取し身体を作る。それ以上でもそれ以下でもない。
 例えば肉を焼いたり野菜を切ったりは出来る。綺麗に盛り付けたり凝った味付けをしたりしないだけで。炭水化物が必要だと感じれば米を食べるし、タンパク質が足りないと感じれば鶏肉を茹でる。つまるところ胡瓜や人参を丸かじりするような生活が常だった。ちゃんとスティック状には切るし必要に応じてマヨネーズや味噌も付ける。
 キッチンの状態からなんとなく感じ取ったのだろう安室に何とも言えない視線を投げられるが、知らん顔で通して澪はテーブルへと近づいた。これが食卓というものか。

「……」
「どうしました?」
「あ、えーと……私が食べていいんですか?」
「もちろん、貴女のために作ったので。どうぞ」

 貴女のために。
 あぁ、どうかこの動揺を警戒故と思ってくれていたらいい。安室が椅子を引いてくれたため、指先を握り締めてそれに甘える。
 目の前に並ぶ、温かくて色とりどりなもの。これが自分のために用意されたものだなんて。勿論純粋な意味なんかではなく、そこには打算だとかたくさんのものが含まれていることは分かっている。けど、そんなことはどうでもいいのだ。
 高揚か、情景か、それらとはまた違うものか。胸に広がる感情と早まる鼓動をなるべく表情には出さないようにして、いただきますと手をあわせて。澪はぱくりと卵焼きを頬張った。

「っ美味しい! 美味しいです安室さん」
「、それはよかった。お口に合いましたか」
「えぇそれはもう。ベルモットには加点するよう伝えておくのでもっと食べてもいいですか」
「はは、ありがとうございます。先程も言いましたが貴女のために作りましたから。お好きなだけどうぞ」

 おかわりもありますよ、と笑う安室がさっき一瞬だけ変な顔をしたことに澪は気付いていたが、全く気にすることなく箸が進むままにぱくぱくと食べる。あっちもこっちも、全部が美味しい。食事がこんなにも美味しいものだったなんて。
 朝はあまり食べられないなどと可愛らしい胃袋をしていなくてよかった。温かくて、美味しくて。世の中の家庭というものにはこんな食卓がたくさんあるのだろうか。なんて羨ましい。
 安室が世間から見てもかなり高い料理スキルを持っていることを澪は知らないため彼女の中での一般家庭の食事のハードルが一気に上がった瞬間だったが、生憎気付く者はいない。
 しつこい程に美味しい美味しいと言いながら食べていると、ふと安室がはにかむように笑った。この短い間で見た中では一番素に近そうなその顔に、平和だなぁなんて思いながら澪はまた口いっぱいにご飯を頬張る。

「ご馳走さまです。とっても美味しかったです」
「ここまで美味しそうに食べていただけると僕も嬉しいです。食後のお茶は如何です?」
「食後のお茶」

 用意されたほんのりと梅の香りを纏う昆布茶は少し熱いくらいで、向かい合って湯呑みを傾けるこの時間のなんとゆったりしたことか。




20220501