アリス。組織の一員であり、コードネームを持つ幹部の1人。
 高い暗殺スキルを持っているだとか、残忍な思考の持ち主だとかいった事実はない。彼女のことをそれはそれは気に入っているらしいベルモットは甘ちゃんだと評しているし、ジンに至っては鼻で嗤うレベルだそうだ。組織唯一のノンアルコールが似合いだと。
 しかし、後ろ暗い事情のある者は皆口を揃えて言う。アリスには気をつけろ。
 組織にとっての不都合を隠していたり、それこそネズミだったり。そんな者たちは全てを暴かれ消されると。まことしやかに囁かれているその噂。

(つまり、逆に言えばアリスさえ欺ければ組織を欺いたも同じということだ)

 任務に向かう道中、アリスを乗せた愛車を運転しながら安室はふと自身の左手に意識を向けた。

***

 それは朝食を食べ終わり食後のお茶を飲み終わった時のことだった。

「安室さん。まだお時間あります?」
「えぇ、1時間くらいは余裕ありますけど。どうかしました?」

 昨日、いやもう今日になるか。ベルモットに無理やり起こされた時の様子と比べたら随分と上機嫌に見えたアリスは、満足そうに湯呑みを置くと時間があるかを訊いてきた。
 それに正直に答えると、そうですか、と頷いた彼女が言ったのだ。
 美味しいご飯のお礼に左手を貸してくれないか、と。何故か両手の指をわきわきと動かしながら。

「左手、ですか?」
「あぁいえ、どちらの手でもいいんですけど。こんなにも美味しいご飯は初めていただいたのでお礼したいんです、騙されたと思って預けてくださいません?」

 にっこりと笑う顔はさすがベルモットのお気に入りなだけあって大層愛らしいものだった。腹の中は全く読めないが。
 ただ、美味しい美味しいとひたすらに箸を進める様子はこう言うのもなんだが微笑ましいもので、お礼をと言われまぁいいかなと思った。今のところ害される理由は思い当たらないし、素直に従っておいて損はないだろう。せっかく接触出来た幹部なのだ、出来るだけ近付いておきたい。変な指の動きは気になるが。
 そんなことを考えながら言われた通りに左手を差し出してみれば、自分のよりも幾分も小さな手のひらに包まれた。温かくて小さな手だ。

「なるほど。先程の不気味な動きは手を温めるためですか」
「……私安室さんは紳士だと信じていました。そんなこと言う人はこうです」
「づっ」

 ぐっと押された親指の付け根に思わず声が漏れる。
 ぷい、とそっぽを向いたアリスは、しかしその後は丁寧に安室の左手を揉み解していった。手のひらから指先まで、丁寧にひとつずつ。その心地よさと温かさに筋肉の緊張が解けていくのが分かる。

「結構人気なんですよ、これ。本業ではないんですけど」
「本業はピアノですか?」
「ふふ、秘密です」
「そう来ますか。しかし大変素敵でした、叶うことなら貴女のピアノを聴きながらこのマッサージを受けたいですね」

 何気なく言った安室の言葉に、アリスはきょとんと瞬いた。
 かと思えば、少し迷子になった表情が最終的にふふんとでも言いたげな得意げなものへ落ち着く。

「そうでしょうそうでしょう。安室さんはやっぱり紳士ですね、そんな貴方に1つプレゼントを」
「光栄です。何を頂けるんでしょう?」
「ベルモットと会話する際、このこと話題に出してみてください。それでベルモットからの評価は上がる筈ですから」
「大変有難いお話ですが、真意を伺っても?」
「またご飯作ってください」

 にっこり。腹の見えない笑顔を浮かべるアリスに、しかしこれまたまぁいいか、と。ぱくぱく食べる様子を思い出してそう思う。
 手にはたくさんの神経が通っている。じんわりと和らいでいくのは素直に気持ちいい。

「デザートをお付けしたら一曲お願い出来ますか?」
「交渉成立ですね!」

***

 ハンドルを握る手は、いや、肩から首にかけても普段より調子が良かった。血行が良くなったから、だなんて言ってしまえばそれまでだが、なるほど確かに人気だというのは嘘ではないらしい。

「あ、桜」
「本当ですね」

 国道を右折したそこには学校があった。体育の授業だろう、校庭で子供たちが駆け回っている。
 広い校庭をぐるりと囲むのは桜色の花弁をいっぱいにつけた木々で、僅かに零れ落ちた花びらたちが道路の端を控えめに彩っていた。

「お好きですか?」
「はい。いい季節ですね」
「なら少しだけ遠回りしましょうか。近くに並木があるんです。時間も余裕ありますし」
「安室さんは本当に紳士ですね。ジンにも見習ってもらいたいところです」

 リラックスした様子でシートに身体を預けるアリスがそんなことを言い、それに安室は苦笑いで返す。穏やかな時間が車の中に流れる。
 まぁこんなところか、掴みは上々だろう。きっとお互いにそう思っていて、そしてそれをお互いが分かっていた。




20220509