××年××月××日
 ○○製薬会社専務接触、取引を持ち掛ける

 ××年××月××日
 ○○海運、輸入ルート確保

 ××年××月××日
 ……
 …………

 まるで童話のようにひたすら文字が連なっているノートに、また新しく書き込んでいく。
 ずっと、ずっと。来る日のために、来ると信じている日のために。
 ぱたん。閉じたノートは厳重に厳重に鍵をかけて、扉を閉じて、また鍵をかけて。アリスは目を覚まして日常へと戻っていく。

***

「……ふぅ」

 午前1時半。いつぞやの魔女の襲来のときのような、皆が寝静まる時間帯。
 ベッドの中でごそごそと収まりのいい体制を探していた澪はしかし、徐に身体を起こすと諦めたように溜息をついた。腹をさすればズキズキとした痛みがほんの少し和らぐ気がする。気がするだけかもしれないが。
 最近天気の悪い日が続いていた。気圧が低いとたまに古傷が痛むのだ。ここ数日上手く眠れていない彼女は調子も機嫌もあまりよろしくなかった。
 しばらくの間さすさすと自身の腹を慰めるように撫でていたが、痛みは無くならなければ眠気も全くやってこないことを自覚すると潔く布団をがばりと持ち上げる。こうなればもうじっとしているより気を紛らわした方が幾らかマシだ。
 電気も点けずに裸足のままキッチンまで歩いていくと、ポットのお湯に水道水を足したなんちゃって白湯を作って少しずつ口に含む。お腹の底の方からじんわりと温かくなっていく感覚は気に入っていた。
 マグカップを持っている手のひらと、湯を飲み込んだ体内と。両方からじわじわ身体が温まる。身体を温めるのはいいことだ。血の巡りがよくなるし、体温が上がって新陳代謝も促進される。だから白湯は身体にいいのだとインターネットに書いてあった。飲んでいるのはなんちゃって白湯だけれど。
 正直健康のため云々には全く詳しくないが、気が向いたときになんとなく身体によさそうなことをするのは気分がいい。自己満足万歳、人間思い込みの生き物である。

「んんー……」

 暗い部屋の中、半ば八つ当たりのようにピアノの鍵盤に指をすべらせる。右へ左へ、指を広げて潜らせて。
 規則正しい運動のような旋律がだんだんと穏やかなで明るいものになっていく。ハッヘルベルのカノン。多くの人が耳にしたことのあるであろうこの曲は、澪にとって頭を空っぽにするのに丁度よかった。
 ただひたすらに音を奏でる。どこまでも派手に華やかに、力強く。今はそんな気分だから。

 無心になるといつまでも弾いているのは悪い癖だ。
 2時間くらい弾いただろうか。テンポを変え転調させ好きなように弾き散らしていた澪は、人の気配にぴたりと指を止める。シの音を最後に急激に静まり返る室内。自分の息遣いと時計の針の音以外何も聞こえない。
 一応時計を確認する。午前4時前。今日は安室との仕事が入っているが、予定では迎えに来るのは10時の約束だった筈だ。そもそも当然のように自宅まで来られることに二言三言は文句を言いたいところだが、今は置いておいて。
 外界とこちらを区切る扉の向こう側。以前と違いすぐ入ってこないのは何故だろうか。数瞬考えたが、まぁいいかと玄関へ向かった。
 こちらの気配にも気付いているだろうに動かない存在に向かって小さく声をかける。忘れることなかれ、今は非常識も非常識な時間なのだ。

「約束の時間までたっぷりとありますけど、随分と余裕をもって動くのがお好きなんですね?」
「まいったな、夜更かしは健康によくありませんよ」

 細くドアを開ければ、更けに更けた夜を背後に美丈夫が軽く両手を上げて立っていた。
 ざっと見て特に危ない感じは無い。お手上げだとでもいう雰囲気を全身で表しおどける安室を前に、イケメンは何をしても絵になるなと場違いな感想を抱いた。例えその手に生活感たっぷりなスーパーの袋を持っていたとしても。

「誠に遺憾ですがとりあえず入ってください。ご近所トラブルは避けたいんです」
「本当に僕が言うのもなんですけど警戒心とか……」
「本当にどの口がと思いますけど入るか帰るかしていただけます?」




20221210