日常なんて簡単に崩れ去るものだ。
小学一年生のとき、幼いながらに理解したと思っていた。しかしやはり子供の覚悟なんて大したことは無かったのだと、心のどこかでもう1人の自分が諦めたように笑うのを彼女は感じた。
慌てふためく父親、自宅に土足で踏み込んでくる黒ずくめの男たち。どこぞの三流テレビドラマかと思うような現状が実際に今目の前で広がっている。分かりやすいシナリオは意外と視聴率がとれるかもしれない。
思考が現実逃避している間にもまた1つドアが蹴破られたところで、ヒッ、隣に立つ父親の口から情けない悲鳴が漏れた。
「ま、まってくれ、お願いだからそれ以上は……!」
「あァ?耳を揃えて払う気になったか?」
「いや、いや、金は、今は……」
「ならお前に用は無ェ」
チャキ、と。聞こえた音はきっとテレビなんかで耳にしていたものよりはよっぽど小さい。
あれは拳銃を構えたことを分かりやすくする為の演出なのだろう。フィクションと現実では異なることも結構あると聞く、特に刑事ドラマなんかでは。
それでも、今耳に届いたその音は何よりも重く聞こえた。
ガチガチと歯を震わせるのは自分ではなく父だ。額に黒い筒を突きつけられた彼はへたり込むことすら出来ないようで、ただただ恐怖に目を見開いている。
それを隣で見ている澪は、どこか他人事のようにその場に立っていた。自分より怯えている人間がいるから冷静でいられるのか、それともとっくに正常な思考を失っているのか。自分でも分からない。
ただ、指先が氷のように冷たくなっていることだけは自覚していた。
「か、金なら代わりに……!!」
「……え?」
突如背中に触れた温もり。それに力が加わり、前へと押し出される。
後ろを振り返ると、血の気を失った父親の顔があった。父親の手が背中を押している。突然舞台の上に立たされたことに澪の心臓がドクリと大きく音をたてた。
金はまだ全ては用意出来ない、代わりに娘を、この子は役に立つ筈だ、なんなら売ってくれてもいい。
何を、言っているのだろうか。分かりたくないけれど分かってしまう。震える口で、怯えた表情で、その声には思惑や考慮など全く無く、ただただ父親自身のみが助かることを考えていることが澪に痛いほど伝わってきた。
「この子は人の心が読めるんだ、きっとあんたたちの役に、」
「話にならねぇな」
耳をつんざくような音。
発砲音。反射で肩が大きく揺れるのとほとんど同時、ぴちゃ、と生温かい液体が澪の頬を濡らした。
何か大きなものが倒れる鈍い音、鼻につく鉄臭さ、恐る恐る頬に持っていった指先についたのは、冷え切った指には熱くすら感じる血液。さっきまで生きた人間の体内を巡っていたもの。
「、あ……」
恐る恐る視線を下げると、父親がぴくりともせずに横たわっていた。
恐怖に見開かれた瞳には生気が無い。唯一動きを見せているものといえば額から溢れ出る血液くらいで、どんどん大きく広がるそれは彼の死を表していた。
幼い頃の記憶が脳裏にフラッシュバックする。点滅する信号機、大きな車体、横たわる母親。
同じだ。広がる赤も、動かない身体も、あの時と。いつだって命は一瞬で失われて、昨日までの当たり前は簡単に壊れていく。
泣いてもどうにもならないそれが怖くて怖くて仕方なくて、幼い彼女は強く願ったのだ。
生きたい
「……さて」
鋭い視線と、今度は自分へと向けられる重い音。
ドクドクと心臓が煩く鳴っているのが分かる。当たり前だ、銃なんて向けられるのはおろか見たことだって初めてなのだから。
ぎゅっと両手を握り締める。最早感覚なんて無かった。ゆっくりと視線を上げれば悪人という言葉をそのまま具現化したかのような男がこちらを見下ろしていた。
どうしてこうなったのだろう。苦労して合格した第一志望の大学で、何人か気の合う友人が出来て、始めたバイトにやっと慣れ始めて、思っていたより多いレポートの量に悪戦苦闘して。そんな平凡な日々を送っていた筈なのに。
多額の借金?父親が殺される?どこの悲劇のヒロインだ。
怖い。身体全体が震えている。やっと現実に思考が追いついたことでやってきた恐怖は最高潮で、でもそれ以上に。
(私は、生きたい)
この人は、話にならないと父親を撃った。だが、その声には言葉とは裏腹に幾何かの興味が乗せられていることに澪は気付いていた。なら。
「……先程父が言ったことは強ち間違いではありません。撃つ前に、話を聞いてくださいませんか」
震える口で紡いだ声は思った以上に情けなかったが、目の前の男の興味をひくには充分だったようだ。
銃を下ろされこそしないものの、引き金にかかる指に力が入る様子はない。少しだけ上げられた口角は話してみろということか。
(落ち着け、考えろ、焦るな、急げ)
間違えたら殺される。
高速で回る思考、乾いた口の中。目の前で鈍く光る黒い銃口。
本当に、日常なんて簡単に崩れ去るものだ。
20180322