きっかけは自転車がパンクしたことだった。
我が家から家までもともとそんなに遠くはない。小学生の頃四十分かけて毎日学校まで歩いていたのを考えたら可愛らしい距離だ。
それでも自転車の有無で十分変わる。十分を侮るなかれ、朝の通勤ラッシュの時間ならその間に電車は二本出るし、何よりくたくたに疲れて帰ってきて駅から家まで歩くか自転車に乗れるかで随分とテンションも変わってくる。だから自転車の前輪が見事に凹んでいるのを見つけた時は私も見事に凹んだのだけれど。
幼い頃からずっとお世話になっている近所の自転車屋さんは随分と優しくなくて、私が家を出る時間にはまだ開いていないし帰ってきた時には閉まっている。土日に行けばいいのではというアドバイスもあるかもしれないが、バイトに勤しむ学生である私は朝から晩まできっちりフルタイムだ。
おかげで未だ駅まで絶賛徒歩通学中である。
(あーあ、)
疲れたなぁ。
随分と重い身体に溜息を一つ吐き出して、夜遅くまで残業御苦労さまなサラリーマンか酔っ払いしかいないホームを抜けて、改札を出る。
いつもより一時間ばかし遅い時間。別に遊んでいたわけではない、大学生といえば暇人の代名詞だと思っている人も少なくはないだろうが、試験にレポートにバイトにとそれなりに忙しいのだ。まぁ自由な時間が多いことも否定はしないけれど。
今日も今日とて歩きかとまた溜息をついた私は、最近お気に入りになった某全国チェーン店へとぼとぼ足を運んだ。
最初は、家までのお供に何か欲しいなぁと、そんな軽い気持ちで足を運んだんだったと思う。
ホットコーヒー一つ、持ち帰りで。注文する際に無意識に笑顔が浮かぶのは仕方が無い、少しでも接客業で苦労した経験がある人なら反射的に店員さんに優しくなってしまうのはお分かりいただけるだろう。レジ打ちが必修科目になれば世界はきっともっと平和になる。
スマイル0円と銘打っているそのお店にも、店員さんもいい迷惑だよなぁくらいにしか感想を抱いていなかったのだが、その日、そう、自転車がパンクして初めて駅から家まで歩いた日。ふらりと立ち寄ってコーヒーを頼んだら、素晴らしいスマイルをくれた店員さんがいたのだ。
0円だなんてとんでもない、れっきとした商品として売られていても不思議ではないほどの完璧なスマイル。だなんて、さすがに大げさだろうか。
とにかくその店員さん、ちょっと見た目はチャラく思えたりもするのだけれど、とっても愛想がよくて態度も誠実で、何より笑顔が輝いていて。まさに接客業の鏡。
それ以来、コーヒーに加えてその人に会えるのも小さな楽しみになっている。今日はいるだろうか。
「いらっしゃいませー!」
いた。
暗い外とは対照的に明るく輝いている店内へと足を進めれば即座にいらっしゃいませの声が響いて、そう声をかけてくれてるお姉さんに小さく頭を下げればその奥に。
あれは何ていうのだろう、フライヤーだろうか、ポテトを揚げる機械のところ。なんだかとても暑そうな作業をしているのを発見した。
レジじゃないのは少し、いやとても残念だけれど、なんだか隣で飲み物を淹れてる人と楽しそうに話しているその顔を見れただけでもまぁいいかな、だなんて思ってしまう私はちょっと末期かもしれない。
でもそれだけあの人の笑顔は魅力的で癒しなんだ。と誰にするでもない言い訳を心の中で呟きながら、お姉さんにホットコーヒーを頼む。持ち帰りで。
無意識に笑いながら頼めばお姉さんも可愛らしく笑ってくれた。
会計を先に済ませて脇に避けて待っていると、お姉さんは次のお客さんの注文を受けていた。遅い時間帯でもここは駅前、電車が着く時間帯は客が増えるのだろう。
それにしても今日は疲れた、家に帰ったらすぐ寝てしまいたい。でも明日の朝お風呂に入る余裕を作れる自信は無いし。
はぁ、と溜息をついて、なんとなくそれを取り戻すように息を吸い込んだりしてみる。溜息をつくと幸せ逃げるだなんて言いだした人は誰だろうか、たまに変な風に気になってしまう。
「お待たせしましたー」
届いた声にはっと顔をあげた。
実際待った時間なんて一分もあるかないかなので全く待たされてはいないのだが、だなんて、いや、今そんなことはどうでもよくて。
あの可愛らしいお姉さんの声じゃない。もっと低くて、ちょっとだけ語尾を伸ばすような感じの、気さくさを感じさせるこの声は。
「ありがとうございます」
「こちらこそー。またお越しくださいね!」
はい、と手渡されるコーヒー。
咄嗟ににこりと笑ってみても店員さんのそれには全く敵わない。なぜなら相手はあの人だったから。
思わずこちらまで笑顔になってしまうような、見ていてとても心地のいい笑顔。それとありがとうございましたの声に見送られて店を出る。
さっきよりもちょっとだけ身体が軽い気がする私は、きっとすごく現金な人間だ。
「……ん?」
温かさを両手で包み込むようにして、口元まで近付けた、ところで。
なんだかコップの柄がいつもと少しばかり異なっているように見えて、街灯がぽつぽつとあるだけの薄暗い夜道では分かりにくくて私は携帯をぱかりと開いた。
ぼんやりと浮かび上がるライト。それに照らされて、細く湯気がのぼるコップが明るく光る。
オレンジ色も、茶色の文字も、いつも通りのデザインだ。何ら変わりのない、見慣れたコントラスト。
だけど、その上に。
『おつかれさま!』
黒いマジックで書かれた短い文字、そして隣に笑顔のマーク。即座にあの店員さんの笑顔が浮かぶ。
なんだ、これは、新手のドッキリか。思わず足を止めてしまった私は悪くないだろう。
そして、不審者ばりに頬がだらしなく緩んでしまったのも、きっと悪くない。
とりあえずその紙コップは、家に帰ったら洗って食器棚に乾しておいた。
20200624