階下から聞こえてくる話し声で目が覚めた。ぼそぼそとしたものと快活なもの、正反対な二つ。どちらとも聞き覚えのあるそれらは寝室の扉越しにぼんやりと耳に届いてくる。
カーテン越しに照らされている室内は明るくて、隣にぽっかり空いている空間のシーツは冷たい。どうやら随分と寝過ごしてしまったようだ。
ぐぐっと両腕を伸ばす。無意識に喉の奥からこぼれた声は我ながら情けない音で。
フローリングに触れた素足が冷たくて、慌ててスリッパを探す。すぐ見つかったそれを履いて部屋から出れば、扉の音に気付いたのか階段の下にひょっこりと顔が覗いた。


「おはよ祥。ごめん起こした?大和さんの声がデカいから」
「祥ちゃんごめん!でもカズも同罪だろー」
「おはようございます。むしろすみません、寝過ごしました」
「いーよ、お前昨日遅かったろ」


顔洗って降りといで、と笑う葛尾は、朝故かはたまた自宅故か普段よりも幾分声が低い。


「てか大和さんなんで来たの」
「今更!?」
「なんにしても朝早すぎ。お爺ちゃんかよ」
「朝飯作るの手伝っただろー」
「ほとんど貴方用でしょうが。俺も祥も朝そこまで食わねーし」


二人の会話をBGMに洗面所へと向かう。幼馴染だけあって彼らのやりとりはテンポがいい。遠慮も無いし。主に葛尾の。
階下からは微かに香ばしい匂いが漂ってきていた。少しするとコーヒーの香りも届いてくる。恐らく祥が起きてきたのを見て葛尾が淹れてくれているのだろう、彼はよく朝に豆から挽いて淹れるのを好む。
先程聞こえてきた会話の通り、葛尾も祥もあまり朝食をとらない。特に葛尾は大体コーヒーだけで済ませるのが常だ。


「お待たせしました」
「ん」


下に降りていくと温かいカップを手渡された。挽きたてのコーヒーの香りになんとなく頭がシャキッとさせられる。
おはよう、と笑う大和はテーブルに皿を並べていた。朝から何品かの料理が並ぶ光景はこの家ではあまり見かけない。焼いたパンと、スクランブルエッグにベーコン。それとプチトマトの彩が眩しいサラダ。


「コーヒーの香りするとカズん家だなーて思う。昔さー、初めて豆挽いてくれたじゃん。まだ小学生だったとき。あれ思い出す」
「プルーストかよ」
「なにそれ?」
「プルースト効果、特定の匂いで昔の感情や記憶を呼び起こす現象のことですよ。フランスの作家のプルーストが書いた小説が元なんです。よく言いません?この香水元カノ思い出す、みたいな」
「えー、それじゃぁカズが俺の元カノみたいじゃん」
「やめろや」
「カズが最初に言ったんだろ」


マルセル・プルーストが『失われた時を求めて』の中で描いたのはマドレースを紅茶に浸すシーンだが、紅茶とコーヒーは通ずるところがあるかもしれない。
何気ない微笑ましい一コマがあったのだろう。ちょっと背伸びをしてコーヒーを挽いてみたとか、苦くて砂糖とミルクを探し回ったとか。葛尾は小学生のときからしれっとブラックを飲んでいそうな気もするけれど。そしてきっと苦い苦いと騒ぐ大和を小馬鹿にするのだ。
想像の中の穏やかな光景に祥は小さく頬を緩めた。




20200426