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邸に入ってすぐにわたしは湯浴みをした。何せ、日数を数えることに恐怖を覚えるほど、入浴出来ていなかったのだ。それは月珠も同様であったため、月珠に「一緒に入るか」と訊ねると、顔を真っ赤にして月珠は固辞した。途切れ途切れに「恐れ多いです、お許しください」と繰り返す様は、自決しかねない勢いであった為、使用人用の浴室を使わせ、わたしはのんびりと叔父が増設したわたし専用の浴室で身体の汚れを落とした。
「はー、魂の洗濯サイコー。お風呂は人間が生んだ文化の極みだわー」
大貴族に生まれて、かつ本家に引き取られて何が良かったって? 浴室が現代とさほど変わらない造りをしていることである。
さすがにプラスチックとはいかないものの、木製の四角い浴槽にお湯を溜める仕組みとなっており、栓を抜くと地中に通した陶製のパイプで排水する仕組みになっていうらしい。現代と全然変わらんのである。
ただ、問題はシャンプーがないことだった。幼い頃、よく母にお風呂に入れてもらったがその際に使ったシャンプーが豆を潰して花や鉱物、芳香物質を混ぜたもの。豆、豆である。一応、洗浄作用があったようだが、文明の恩恵を受けていた身としては耐えられなかった。そして、並々ならぬ執念と紅家の財力と技術で出来たのが石鹸。今となっては、紅家の特許・特産の一つとなっている。ちなみに、わたしの会社玉鳳の商品の一つでもあるので、それがわたしの収入源となっているのだ。
「御方様、お召し替えの準備が整いましてございます」
「そう、ありがとう」
月珠の声が脱衣所から聞こえ、脱衣所へと出ると月珠が着替えを準備して待っていた。
新品の質の良い衣を纏っているが、髪は乾燥したままなので入浴はまだのようだ。
「着替えだけ置いといてくれたら、お風呂入ってきてよかったのに」
「そういうわけにはまいりません。わたくしが御方様のお世話をせずして、誰がすると言うのですか」
「この身体のせいだね。ごめんね、負担をかけて」
自分の身体を見下ろし、自嘲気味に笑う。脱衣所に置かれた鏡面に映るのは、まごうことなき一人の女だ。
男にはないはずの盛り上がった乳房に、括れた腰。男にしては大きく柔らかそうなな臀部。
その姿こそが、世羅と婚姻できない理由だった。
「女として生きられないのに、こんなの余分でしかないよね。これこそ、真の贅肉。無価値すぎるわー、このおっぱい」
推定Eカップ。成長した時は、転生してもなお肩こりに悩まされるのか! と打ちひしがれたものである。いらだたしげに「ばいんばいん」と両手で揺らしていると「おやめください」と月珠が真っ赤な顔を両手で覆った。
「お胸を揺らしたら、垂れると仰ったのは御方様ではありませんか。ご自分のお胸を蔑ろにするような真似はおやめください」
「蔑ろにするも何も、使う機会がないんだよなー」
「わたくしはいつか御方様のお胸が日の目を浴びると信じております!」
日の目を浴びたらそれはそれで痴女でないか? と思うわたしであった。
女であるわたしが、紅家の跡取り息子として生きている理由。それは、両親にあった。
わたしの父は世間で知られている通り、廃嫡された紅家の嫡男である。その父は若い頃、嫡男としての役目を放棄し各地を転々としていた。その放浪の旅で出会ったのが、母だ。母は彩雲国初代国王蒼玄の実妹、蒼遙姫を開祖とする異能と祭祀を司る縹家の生まれでその類稀なる美貌から一族の権力者によって、監禁されていた。偶然、何の因果かそんな母と運命の出会いをした父はあろうことか、KOIしちゃったのである。そうして何の躊躇もなく愛を告げた父であったが、物事そううまく簡単にいくわけもなく、にべもなく一蹴されてしまった。父はおっとりとした性質であったが、そこは紅家の男。それくらいで恋心が消えるわけでもなく、むしろ燃えた。
そしてハーレクイン監禁男から母を奪った父は、そのまますたこらすたこらほいさっさと母を連れてどこまでも逃げた。その逃亡生活の中で、ついに母にも父への恋心が芽生えーー生まれたのがわたしと妹である。要は、そこらへんに転がっている駆け落ち話とそう代わりはない。しかし、いくつか問題が残っていた。そう、母の生家と、ハーレクイン監禁男である。
実はこの監禁男、縹家の当主であった。そして、母は深刻な少子化に悩む縹家の数少ない異能者であったのだ。これが問題であった。
何とか縹家の目から逃れ結婚し、わたしと妹を設けた両親であったが、不運なことにわたしは母方の縹家の血を色濃く継いでしまっていた。そして、生まれたばかりのわたしは、産声を上げて呼吸を開始するとともに、盛大に異能と呼ばれる力を使ってしまったらしいのである。お陰で、冬にも関わらず彩雲国では桜開花宣言。慌てた両親は、再び逃亡生活を開始し、最終的に紅家本邸へと逃げ込むことになったのだが。
まさにわたしの花咲かてんてん能力で、家族の命がヤバイ状態だったのだ。
縹家では異能の継承は母から娘へーー女系によって行われる。つまり、縹家に捕捉され捕らえられたが最後、幽閉され次世代の異能者を生む胎盤にされることを恐れた両親は、わたしを男として育てることにしたーー。それが男としての生を強いられた理由である。
いやー、人生ってままならんもんだわ。
「気持ちいいですかー、叔父さま」
「気持ちいよ、なまえ」
入浴後、わたしは「助けてもらったお礼に」と叔父に肩たたきをしていた。お礼をしようにもお金を持ち合わせておらず、また邸で手伝いをして返そうにも、使用人達の仕事を奪ってしまうことになるので、出来ることといえばこうした叔父さん孝行であった。こんなこと、きっと小さい子しかしないんだろうなーと無力感に苛まれて仕方がない。明日、現金調達しよう。
「可愛い姪に肩を揉んでもらえて、私は幸せだよ」
鏡に映る叔父のこのぐずぐずに甘く崩れ切った顔、キリッとした顔しか知らない一族のやつらに見せてやりたい。
「もう、そのことは私と叔父様とお父様の三人だけの秘密なんだから、しーっですよ」
「そうだね、しーっっだね。私と君と兄上の三人だけの秘密だものね」
ふっふっふ、と笑いと喜びを隠しきれない叔父。姪からしたら、少々行きすぎたそのブラコンが面白おかしくて仕方ないのだが、他者から見たら仕事をしない奇天烈な吏部尚書。あるいは、冷徹な紅家の当主である。
「叔父様は本当にお父様がお好きですね。お父様もきっと、叔父様がいらっしゃるから幸せですわね」
「そうかい!?」
喜色満面で勢いよく叔父が振り向いた。叔父の肩を揉んでいたわたしは、突如として叔父が動いたので驚いて思わず仰け反った。
「はい」
ぱああっと叔父の顔が多幸感に包まれる。兄上は私がいるから幸せ……と譫言のように繰り返し反芻する叔父。
本当に父は幸せである。何をすればこんなに弟に熱烈に愛されるのか。わたしの妹は、きっとこんなにわたしのことを想ってくれないだろうなーと考えていると、不意に叔父がわたしの手を取った。見下ろすと、やけに真剣な顔をしている。
「ねえ、なまえ。たしかに、兄上は私がいて幸せかもしれない。でもね、私以上に兄上を幸せに出来る人間は、この世にいるんだよ」
「それは……お母さまですか?」
幼い頃に亡くなった母。彼女が急死した時の父の慟哭は今でも忘れられない。あの時、わたしには父に何もしてやれなかった。それどころか、一層父を悲しませてしまった。
わたしの問いに、叔父は緩く頭を振った。
「いいや、君だよ。君が離れている間、兄上はとても君のことを心配していたよ。それほど、私が妬けるくらいにね」
冗談めかして叔父が笑うが、叔父の場合全然冗談に聞こえない。わたしは思わず口元を引きつりそうになるのを、我慢した。
「君は自分のせいで家族に苦労をかけたくないと言うけれど、君がかける苦労なんて兄上や私にしてしまえば微々たるものだよ。いつも私は言ってるだろう。縹家がなんだ、そんなものは私が潰してやると」
それが冗談ではないことは、すぐにわかった。
「叔父様、いつもありがとう。私、いつも叔父様がそうやって私を励ましてくれるから、私とても元気付けられます」
「ふおっ」
ぎゅむっ
と椅子に腰掛けた叔父を横から抱きしめる。幼い頃、わたしにとって座った状態でも身長が届かず、膝を抱きしめるしかなかった叔父は、わたしの胸にすっぽり収まるほどにわたしは成長した。
叔父の頭部にほっぺたを押し付け、囁く。
「叔父様、薄情なわたしを、お父さまや秀麗や静蘭は失望してないかしら……」
家出した娘を怒っているならばよい。それはきっと、娘への愛から来る怒りだから。だが、失望して忘れ去られていたらーーと思うと、不安でならなかった。それだけ、家族から離れていた時間は長かったから。
「失望などするはずがない。常に兄上と秀麗を見守っている私が言うのだから間違いない。一度、会ってごらん」
「叔父様がわたくしと秀麗に挨拶してくださるなら、参りますわ……」
「そ、それは待ってくれ! まだ心の準備が!」
「冗談です」