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「また、彼氏と別れたんだって?」
「耳が早いな。誰から聞いたの? フレッド? ロニー?」

 分厚いグリーンのカーテンから月光が差し込んでいる。中世から伝わる宝物のような調度品に埋め尽くされたリビングは、夜の静けさに包まれていた。ソファーにもたれ、すらりとしたかもしかのような足をオットマンに投げ出した少女は、不機嫌そうに顔を挙げた。

「情報の出所は言えないな。勘違いされたら困るから言っておくが、ただの好奇心で聞いたんじゃないぞ。お前の後見人として、男を渡り歩くスピードが早すぎないか? って最近心配なんだよ」
「いやだ、女たらしの言葉とは思えない。世間一般の伊達男なら、男は女を磨くための鏡だからいくらでも経験を重ねればいいって言葉くらい、くれてもいいんじゃない?」
「お前に限っては、俺は世間一般の伊達男じゃないからな」
「じゃあ、何なの? 後見人? 口うるさい父親みたいで、嫌だわ」

 そばに腰かけたシリウスを無視して、なまえは不機嫌そうに顔を背けてしまった。満遍なく仲良くする性格だが、父親譲りのものか特に仲の良い相手以外には気まぐれに冷淡な態度をとることがある。しかし、なまえにとってのシリウスは〃特に仲の良い相手〃であり実の親子のように空白の時間を埋めてきた。なのに最近、親友の忘れ形見はいやにシリウスに対して冷たい。

「そう言うなよ、傷つく。俺にとってお前は特別なのに。お前にそんなこと言われたら、生きる意味がなくなるだろ」
「そうやって、大袈裟なこと言うんだもん。困る」
「大げさじゃないさ、俺の宝物」
 緩やかに波打つ髪を後ろへと流し、こめかみに口付けるとなまえはようやくこちらを向いた。ハッとするほど鮮やかなグリーンの瞳は、どんよりと曇ったままだった。
「四年の時に付き合ってたあのハッフルパフの恋人はどうしたんだ? 一番長く続いてただろ」
「セドリック? そうね、一番素敵な人だったけど、ずっと一緒にいたいって思うほど好きじゃないことに気づいたの」
「じゃあ、今の恋人は?」
「今の恋人も好きじゃない。前の人も。一緒にいる意義が見出せないのよね。だって、わたしには花も宝石も、スイーツも間に合ってるんだもの」
「じゃあ、何で付き合ってるんだ?」
「さあ。何でだろ」
 なまえはまた顔を背けてしまった。ジェットブラックの巻き毛から覗く端整な横顔は、両親の美点を備えてその面影を色濃く残していたが、二人が見せないような憂いを帯びていた。彼女が時折見せる孤独感や、厭世的な表情はいつもシリウスを困惑させた。魅力に溢れ、多くの友人たちにも囲まれているのになまえはあまりにも愛に飢えていた。シリウスと再会するまでの環境が彼女をそうさせたのは明らかであった。万能感に満ちた二十代のシリウスならば根暗な奴だと見向きもしなかったかもしれないが、相手が親友の忘れ形見ともなると、自然と愛情と使命感が湧いてくるのであった。
「俺にはわかるよ。お前、寂しいんだろ? だから、愛の言葉を囁いてくれる恋人で気を紛らわそうとしてるんだろ」
「どうしてそう思うの?」
「わかるさ。俺もそんな時期があったから」
 なまえが不意にシリウスの肩にもたれたと思うと、深呼吸をし震える声で呟いた。
「セドリックにね、言われたの。僕が何万回愛の言葉を口にしても、君には届かないって。君は誰を見てるんだい? って。わたし、セドリックのことが好きなんだと思ってた。だけど、違ったの」
「そいつに他の男を重ねてみてたわけか。その相手が誰なのか、自分で気づいてるのか?」
「最近、気付いた」
「それは是非知りたいね。お前の心を奪った罪深い男の名前を」
 肩を伝ってなまえが笑う気配がした。なまえはシリウスから身体を話すと、悪戯でも企むかのように口の端で笑った。
「本当に知りたい? 後悔するかも」
「もしスネイプの名前が出たら、俺は一生後悔するかもな」
 シリウスは笑い声をもらし、降参とばかりに両手をあげた。
「スネイプより素敵な人だから安心して。グリフィンドールを減点したりしないし、わたしにとっても優しいし清潔でハンサムよ」
「ビルか?」
 自然と脳裏に浮かんだのは騎士団に出入りする美しい若者だ。男のシリウスから見てもはっとするほどの色男であり、気立ても良い。幾分か年上ではあるが、許容範囲だ。

 しかし、なまえは頭を振った。
「違う。わたしが好きなのは、今わたしの隣に座ってるシリウス・ブラックっていう男の人」
 衝撃のあまり呆然とするシリウスに、なまえは気まぐれな猫のように目を細め、優雅に首に抱きつき、蠱惑的に微笑んで見せた。
「お、おま……ま、待ってくれ──冗談だよな?」
「冗談じゃないよ。好き。お花も、ジュエリーも、靴もドレスもみんなシリウスがくれたけど、わたしの欲しい好きだけはもらえなかった。だから、他の男の人からもらおうと思ったの。だけど、駄目だった。やっぱり、好きな人からの好きじゃないと駄目なんだって気付いたの。だから、わたしと結婚して」
「いや、なまえ、俺の好きは父親としての好きで、異性愛じゃなくて、父性愛であってだな……」
「シリウス、動揺してるの?」
 シリウスのグレーの瞳を下から覗き込んで、なまえが勝ち誇ったように笑う。それはいつもの悪戯が成功した時の少年のような笑顔ではなく、大人の女が浮かべるような艶を含んだものだった。いつのまにこんな大人の女性になってしまったのだろう、この笑顔を浮かべさせているのが自分だということに気づき、シリウスは頭が痛くなった。
「調子に乗んな。他の男が引っかかっても俺は引っかからねーからなっ」
 手荒にソファーに弾かれなまえが小さく悲鳴をあげてソファーに仰向けに倒れた。
「ひどい!」
「大人をからかった罰だ」
「からかったわけじゃないのに! 負け惜しみだわ!」
「なーにが負け惜しみだ」
 体勢を立て直したなまえがいそいそとシリウスににじり寄り、猫のような身のこなしでシリウスの膝の上に乗り上げた。
「おい、こら」
 そのまま抱きつかれてしまえば、背後が床である以上手荒に引き剥がすわけにもいかず、シリウスは完全に逃げ場を失った。会心の笑みを浮かべたなまえが柔らかな身体を押し付け、花の香りをさせながらシリウスに迫った。
「わたし知ってるんだから。シリウスはわたしのことが好きって」
「思い上がるな。俺の愛は父性愛だ」
「そうなの? でも質量で言ったら、わたしが一番でしょう?」
「かなりの自信だな。経験値積んだみたいだが、俺相手にしても意味ないぜ。恋人には困ってないし、俺の好みは大人の色気のある女だ」
「色気なら、あと数年したら出るわ」
「その頃には、俺は別の女と結婚してるかもな」
 残酷な一言を発して、シリウスは後悔した。泣かせてしまうかも、と嫌な予感が胸をよぎったが予想に反してなまえは首を傾げ、小馬鹿にしたように笑った。


「不毛なことするのね。わたし以上に好きな女の子なんて、できないくせに」
 唖然とするシリウスに、なまえは言い畳む。
「今は家族としての好きでもいいよ。だけど、すぐにきっと振り向かせるから。今度はわたしがシリウスの心を取る番」
 自信満々になまえは宣言する。年々美しさは増し、父親譲りの癖のある性格にも磨きがかかっていく少女。父親を相手にしていた時はその挑発的な性格も、刺激の一部でありジェームズという男を気に入る要素の一つだったが、今となっては得体の知れない恐怖となってシリウスの前に立ちはだかっていた。

 しかし、シリウスは大人としての矜持からなんとか動揺を押し殺し、尊大に上半身をそらし笑ってみせた。

「奪えるもんなら、奪ってみな」
「余裕なのも今のうちよ。わたしが百年に一度のシーカーだってこと、忘れないでよね」